02

 人類原種の発生地である太陽系第三惑星から、およそ四十五光年ほどの距離にある馭者座星系。巨大な四連星を中心に七つの惑星からなるその星系の最外縁部には、数十もの準惑星が存在する。

 それら準惑星のひとつ、C2。氷と砂の嵐が吹き荒れる地表には、いまやとうに旧時代の技術と化してしまったドーム状の建造物がまだ残されている。

 現在ではすっかり珍しいものとなったこの惑星地表建築物は、さかのぼること約八百年、宇宙開発の黎明期に、あまた建設された宇宙開発拠点、地下開発技術が未発達であった過去の遺物である。昨今の惑星開発では、さまざまな意味で危険きわまりない地表面になにかを築くことなどありえない。

 馭者座星系カペラ準惑星C2は地球から近いこともあり、宇宙開発のきわめて初期の段階から開発が進められてきた惑星である。当時はまだかろうじて存在していた国家群が競い合うようにして膨大な資源を投入し、少しでも多くの利権をわがものにしようと画策した地域でもある。

 もう歴史の中にしかその名を残さない超大国も、現在の人類連合の礎となった国家連合も、そのころはまだ宇宙の果てしない広さを知らなかった。それゆえ、わずかな利益をめぐり大きな争いが繰り広げられたこともあったという。

 しかし、やがて人類原種は思い知った。

 宇宙は広い。すべての叡智を合わせてかからなければ、銀河をまたぐことはおろか太陽系を出ることすら不可能である、と。

 宇宙ドームひかりは、ちょうどそのころに建設された。

 ひかりの建設を主導したのは、亜細亜アジアと呼ばれていた地域の辺縁に存在した、とある島国である。緻密で丁寧な開発を得意としていたその国の某宇宙開発技術者は、ごく個人的な回想の中で、ひかりの建設について、持てる技術のすべてを尽くし千年を超える使用にも耐えうるドームを作ったという自負がある、と述べている。

 その言葉に嘘はなかった。

 歴史の長いC2の地表には、ほかの星系ではもうほとんど見ることのできなくなった宇宙ドームがいくつも存在しているが、ひかりをはじめ、そのすべてがその島国の建築によるものである。むろんその大半は設備としての寿命を迎え廃墟となっているが、いくつかはまだ使用することができた。

 宇宙開発初期に発展したC2は人類原種の前進基地、あるいは現在の人類の揺籃としての役割を終えた。いまは往年の賑わいをすっかり失い、星系の片隅にひっそりと浮かぶ星のひとつとなっている。

 しかし一方で、宇宙ドームひかりのような古い技術には、観光資源あるいは研究対象としての価値がまだ残っている。見学に訪れる観光客は途絶えることなく、人口規模も一定水準を下回ることがない。

 古い時代に開発された準惑星としては、異例と云ってよかった。

 ひかり内には人口十万規模の都市が七つ存在している。

 そのうちのひとつ、β《ベータ》市。統計上の人口は八万人を超える程度で、七つの都市のうち、最も規模が小さい。

 黒衣の女に拾われた少年が暮らす幽宮かすかのみやは、このβ市にある。


 万華鏡の主人と少年は顔馴染みである。

 このあたりは、以前、男娼をしていたころの彼の縄張りだった。

 廃業以来、滅多に顔を見せることのなかった少年が部屋をよこせと云ってきたことに、主人は素直に驚いた表情を見せた。

 ふくふくとした頬とつやつや光る額にごまかされる者も多いが、万華鏡の主人は冷血な守銭奴である。客をとれなくなった少年が姿を見せなくなったことには気づいていても、その後の彼がどのようにして生計を立てているかには興味がない。男娼としての場所賃を納めなくなった少年など、使い捨てにするシーツほどの役にも立たないと本気で思っているからだ。

 損壊、殺害、なんでも歓迎の悪徳宿屋は、しかし客の要望には逆らわない。黙っていろ、見なかったことにしろ、聞かなかったことにしろ、と言われればすべてそのとおりにする。

 宿を出たばかりの客がたちの悪い恐喝屋に絡まれようとも黙っているし、騙して連れ込んだつもりのこどもに身ぐるみはがされようとも見なかったことにする。瀕死で助けを求める声も、断末魔の叫びも聞こえなかったことにする。

 とはいえ、そんな主人にも人並みの好奇心はある。とんと姿を見かけなくなっていた元男娼が突然に客を連れて出戻ってくれば、懐かしさも手伝ってなれなれしい口もききたくなるというものだ。

「へえ、めずらしいこともあるもんだねえ、セツ」

 現役復帰かい、と主人は肩をすくめた。妙に歯並びのいい口元には愛想笑いまで浮かべている。

 少年、セツは、ぎろりと音がしそうな視線で主人を見据えた。

「そんな顔をするなよ。あがったやつが顔を見せるなんてめったにあることじゃないんだから、気になるのはあたりまえだろう?」

 にやにやと下卑た笑いの裏には、狡猾な計算が見え隠れしている。——うまい儲け話があるのなら一枚噛ませろ、さもなきゃすぐにここから叩き出してやる。

 下種な金儲けに精を出しているとはいえ、万華鏡は政府から営業許可を得た正規の宿である。もぐりの男娼のひとりやふたり、ひねりつぶすことなど造作もない。

「ひさしぶりじゃないか、ってそう云ってるだけなんだから、愛想のひとつくらいよこすもんだろう、え?」

「そうだね」

 セツは凶悪な笑みを浮かべた。

「そういや、おまえ、鞍替えしたんだっけな、美人局つつもたせに」

 主人は下品な笑いを返す。

「ずいぶん儲かるらしいじゃねえか」

 セツは笑みを消した。

「よく知ってるね」

「おまえの仲間は、うちのお得意だからな」

 もちろん主人は知っている。セツの新しい商売が、美人局などというかわいらしいものではなく、正真正銘の恐喝だということを。

 なあ、と猫なで声を出して、主人はカウンター越しに顔を近づけてきた。

「あれはなんだ、新しいカモか?」

 セツの背後に立つ、この場にはふさわしくない客を、頭のてっぺんから足のつま先までじろじろと眺めながら主人は尋ねる。

 万華鏡は質素な宿だ。

 調度品もリネン類も標準的な品質の量産品で、別料金で提供する食事も工場生産品のデリバリーを契約している。特別な客にあてがう部屋にのみ特殊な加工を施し、おおっぴらにはできないサービスを行ってはいるが、それはまた別の話である。

 むろん建物そのものも非常に地味で、外装も内装もみすぼらしくならない程度の手入れしかされていない。風除室を挟んだ二組の自動扉の硝子には年代を経たゆえの曇りがみられるし、床に敷き詰められた絨毯は擦り切れかかっている。

 不潔でないところだけが唯一の救いといってもいい安宿に、セツの連れてきた客はいかにも不似合いだった。

 カモじゃなきゃ、と主人は歯を剥き出して笑う。

「ママか?」

 ふ、と空気の動く音がした。

 自分の鼻っ柱の折れる音を少しでも遠くで聞くために主人が目をつぶるのと、音程の外れた弦楽器のような甲高い笑い声が響くのが同時だった。

 主人は反射で舌打ちをする。からかいすぎたか——。

 が、予想していた痛みは訪れなかった。

 おそるおそる目をあけると、セツの整った顔が目の前で歪んでいた。笑っている。手拳こぶしに金属の発火石を握りこみ、セツの鼻先で寸止めしたまま、壊れたような笑い声をあげている。

 主人はふたたび舌打ちをした。——頭のおかしいクソガキめ。

 笑い声がやんだ。

「さっさと鍵をよこせよ」

 セツの声は低い。

 星間旅行案内にも名前の乗る正規の宿でありながら、ヘドロのような欲望の坩堝でもある万華鏡は、当然ながらその実態を公にしているわけではない。官憲に対し脛に傷持つ立場は、男娼たちと同じなのである。

「宿屋の亭主は亭主らしく、客には丁寧にしてたほうがいいんじゃないかな」

 主人は不機嫌そうに目を細めた。だが、なにも云わずにカウンターに鍵を置いた。

 自分のほうがセツよりも失うものが多い。そのことは主人自身が一番よくわかっている。

 セツと同じように親に見捨てられ、セツの半分ほども美しくない彼が、セツの倍ほどの年月をこの幽宮でどうにか生きてこられた理由は、ひとえに、養い親の遺してくれたこの安宿にある。主人は己の分を弁えている。

 セツは鷹揚に頷いてみせた。

「それにしてもすごいな、セツ」

 挨拶がわりのやり取りを終え、主人の声音は利害の一致した者に向けるそれに変わっている。

「なにが?」

 セツの声も穏やかだ。

「あれだよ、あれ。男? 女? どうやって見つけてきたんだよ?」

「声がかかったんだよ」

「男?」

 あんたにわからないんだから、ぼくにわかるはずがないだろう、とセツは答えた。

「連込みの亭主にわからないもんがぼくにわかるもんか」

 どっちだっていいよ、とセツは云う。

「しばらく会わないうちに忘れたの?」

 そいつは失礼したな、と主人はまたもや肩をすくめた。

「ひさしぶりなもんで忘れてたよ。おまえの守備範囲の広さをさ」

「どっちにしてもあんたは範囲外だけどね」

「入れてもらおうとは思ってねえよ」

「どうだか」

 セツは意地悪く嗤い、そういえばさっきここにあやかしが入ってったよ、と続ける。

「怖いのか」

 主人は喉奥で笑う。やっぱりそいつも変わらねえんだな。

「心配はいらねえさ。前に教えたろ。うちは安全。そのむかし祖父ちゃんがどっかの拝み屋に売りつけられたまじないの札があって、こいつがまあ、えらいこと効くんだよ」

 セツの目に見える鬼魅おには、主人には見えない。

 だが、主人はセツの言葉——妖物ばけものが見える——を信じている。

 この幽宮で、否、宇宙ドームひかりに暮らすもので、妖を信じぬ者はいない。鬼魅を見る者は少なく、彼らのなすという呪いを受けた者はもっと少なく、ほとんどの者たちは妖物とは無縁に生きている。

 それでも、妖物はいる、と人々は信じている。

 セツは琥珀の瞳でじっと主人を見つめた。主人はまじめくさった顔で小さくうなずいている。

「その札、せいぜい大事にしたほうがいいよ」

 セツが親の顔を知らないのは、彼が鬼魅を見る妖力ちからを持っていたせいだ。こんな街で這いずるように、文字どおり身を切り売りしながら生きていかなくてはならないのも、ぜんぶぜんぶ、なにもかも——。

 セツは自分に備わる異形の妖力を厭う。まっとうになりたいという願いを阻む、厄介な力を疎ましく思う。

「ご忠告どうも」

 少年は肩を竦め、鈍い金色の鍵を掴んだ。防犯としてはまったくの無意味、もはや骨董としての価値しかない錠前を開けるためのそれを珍しがる客もいるということを、セツはよく知っている。

「ごゆっくり」

 セツは主人に言葉を返すことなく薄暗い階段へと足を向ける。部屋は二階だ。自動昇降機エレベータを使うまでもない。

 長い黒髪を払いのけながら、客は黙ったままセツの後ろをついてくる。

 こうしてあらためて灯りの下で見てみると、身震いしたくなるような美貌だった。顔の半分が濃い色の眼鏡で隠れていることや、あいかわらず男だか女だかわからないことを差し引いても、滅多なことではお目にかかれないだろうとさえ思わせる。

 万華鏡の二階、廊下の一番奥にあてがわれた部屋がある。

 耳障りな音を立てて軋む扉を開けると、見るからにスプリングの悪い寝台と実用性の乏しい形ばかりのサイドボード、貧相な浴室があるだけの殺風景な室内がひとめで見渡せる。内装と調度品はくすんだ地味な色味でまとめられ、落ち着いているというよりはいっそ古ぼけている。明るくなりすぎないよう控えめに絞られた灯りが、煤けた壁や天井や絨毯をよけいにみすぼらしく見せていた。

 手にしていた黒い鞄を部屋の隅に放り投げるように置くと、客は窓際に歩み寄った。

 窓が開け放たれると、途端に部屋に籠もっていた湿気と黴臭さが抜ける。代わりに刺すような冷たい風が吹き込んできた。

 セツに背を向けたままの腕の動きで、客が眼鏡をはずしたのがわかった。長い漆黒の髪が冷気に揺れている。

「はじめに訊いておきたいんだけど」

「払いは現金でいいか」

 セツの言葉を遮るように客が口を開いた。

「あたりまえだよ。小切手でも切るつもりだった?」

「いくらだ?」

 性急な声に焦りはないが、振り返ってセツを見つめる眼差しにはかすかな苛立ちがある。

 その闇色の瞳——黒のなかに、金や銀の散る不思議な色合いの虹彩——を見つめ返しながら、セツは慎重に思考をめぐらせる。

 この客の望みはなにか。

 一見したところ、男娼を買う女にも男にも見えない。着ているものも所持品も安物には見えない。仕草に荒っぽいところはなく、口調は雑だが発音は上品だ。

 とはいえ油断はできない。以前、まだ仕事をはじめたばかりのころ、ひどい嗜虐趣味の客を取ってしまったことがある。身なりのよい、穏やかそうな外見に騙されたのだ。あまりの苛烈な行為に意識をなくしたせいで、金を取り損ねた。莫迦みたいだ。あんな経験は一度きりでじゅうぶんだ。

「なにか希望はある?」

 縛るとか叩くとか、そういうのがあると値段も変わるんだよね、とあえて軽い口調で尋ねてみるも、客は表情を変えない。

「とくにない」

 その短すぎる返答では、声ににじむかもしれない欲望も読み取りようがなかった。

 セツはあきらめて金額を告げる。ええいままよ、と口にした額は、相場の倍ほどである。

 客は薄い財布から、ごく無造作にその三倍以上の紙幣を取り出した。

「……特別奉仕はなしだよ。ぼくはそういうのはしないんだ」

「どういうのだ」

「説明したほうがいいのかな」

「いらない」

 鋭い喋り方のせいか、涼やかな声が氷刃のように感じられる。服装もさることながら、その人物の性別がいまだに不明な理由はその口調にあった。男にしては透明すぎる声だが、女にしては鋭すぎる物云いであるように感じられる。

「そう警戒するな」

 セツは思わずいぶかしむように眉根を寄せた。相変わらずの口調であるにもかかわらず、そのときばかりは声に笑いが含まれているような気がしたからだ。

「明日のぶんだと思えばいいだろう」

「いちどもやらないうちから、明日のぶん? ずいぶん気が早いんだね、早いのは嫌われるよ?」

 そう云いながらも、セツは客の手から素早く札をひったくった。くれる、というものをもらわずにいられるほど上品な育ち方はしていない。

「浴室なら先に使え」

 客はごくそっけなく云った。急にセツに興味をなくしたような変化だった。

 ここで放り出されては困る、とばかりにセツは問いかける。

「で、あんたはどっちなの?」

「なにがだ」

 窓の外を向いたまま外套を脱いだ客は、開けっ放しにしている窓の枠にもたれかかる。

「どっちって、訊いてるんだ、わかるだろ」

 風に流れた漆黒の髪が顔を縁取り、この世のものとは思えないほどつめたく研ぎ澄まされた眼差しがセツを射抜いた。

 その鋭さにセツはたじろぐ。やるほうかやられるほうかってことだよ、という直截な問いは、相手の耳に届く前に飲み込むしかなかった。

「男か、女か、と訊きたいのなら、あとで確かめさせてやる、と答える」

 ふいにやわらかな声で客が云った。

 セツは気づいた。——女の声だ。

 ほのかな笑いを含んだつややかな声にセツは思わずうろたえた。わずかに遅れて、からかわれた、と気づき、けれど怒りは湧いてこなかった。やさしい声音に安堵した。やすらぐような不思議な感覚で、セツは彼女に囚われていた。

「そんなことが知りたかったのか」

 まるっきりこどもを相手にするような口調だった。

「怒ってるの」

 対するセツもどこか幼い声音になってしまう。

「べつに怒るようなことはない」

 客はセツをからかうことに飽きたのか、ふたたび窓の外へと身体を向けた。華奢な肩や腰の線が、女のものだと思うならたしかにそうだったことに、いまさらになってセツは気づいた。まろやかとは到底云い難い身体つきだが、男特有の骨太さはない。

「ほんとに怒ってないの」

「気にするな」

 女は振り返ると、穏やかな口調で云った。

「男であるか、女であるか、その区別がそれほど重要でない生き方もある。わたしはそういう種類の人間だ。おまえには少しわかりにくいのかもしれないが」

「わからないわけじゃない、羨ましいと思っただけだ」

 思わずこぼれた本音に慌てたのはセツのほうだった。

「そんな生き方ができるなら、ぼくだってそんなふうに生きてみたかった」

 押し殺すようなセツの声に、そうでもないよ、と女は云った。

「自分が何者であるか、男なのか、女なのか、それを知っていることはおまえが考えているよりたぶん幸せなことだ」

「ぼくが幸せだって云うのか」

 思いがけず強い口調になった。ぼくが幸せだって云うのか、なんにも知らずに、幸せだって、そう云うのか。身を売るかなしみを知らずに、ぼくを幸せだと。

 その剣幕に、女はわずかに身をひいた。

「ぼくは自分が誰であるかなんてわからなくっていいから、こんなふうに誰かに自分を売る暮らしをしないですめばいいって、そう、思ってるのに」

 膨れ上がった激情は、窓から吹き込む冷たい風にさらされ急激にしぼんだ。

「……あんたなんかに、なにがわかるもんか」

「悪かった」

 女はためらいなく謝罪した。すべてを見透かしていたかのような、隙のない間合いだった。

「謝れなんて云ってない」

 駄々っ子のようにセツは云った。またもや感情が満ちてくる。

「あんたなんかになにがわかるかって」

「帰っていいよ」

 女は穏やかに、しかしきっぱりとセツに告げた。

 え、とセツは目をしばたたかせた。感情の制御がまるで効かず、目の縁が熱く潤んでいるのがわかる。

 そんなセツに、女はなおも穏やかに云う。

「なに?」

「もう帰っていい、と云ったんだ」

 セツの顔から血の気が引いた。

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