不夜城寓話

三角くるみ

〈1〉鬼を視る少年

01

 濃灰色の空から絶えず落ちてくる、翳を含んで煤けた重たい雪が、急ぎ歩みを進める少年の肩に、頭に降り積もっていく。くすんだ飴色の髪はつめたく凍り、同色の長い睫毛に縁どられた双眸は闇の中で鈍く光っている。

 分厚い手袋の下ですらかじかんで感覚の鈍くなった指先を動かしながら、少年はうんざりとした表情でつくりものの冬空へと視線を向けた。どんよりとした琥珀色の瞳に苛立ちが混じる。

 ドーム内の気候は電脳コンピュータによって完璧に管理されているはずだ。なのに、もうッ、なんだってこう寒いんだよッ!

 ろくでもない街に、なにもかもうまくいかない人生。

 せめて雨風ぐらいは、生存を脅かさぬ程度に穏やかに整えてくれてもいいものを、融通のきかないポンコツ電脳は、知りもしない故郷を忠実に再現することにやたらに熱心であるようだった。

 少年はときおり思い出したように自身に降り積もった雪を払い落とし、しかし、立ち止まることなくさびれた路地を進んでいった。

 幽宮かすかのみやと呼ばれているこの地域の治安は、とても悪い。

 数多の妓楼と街角に立つ娼婦、男娼。化粧と香水と睦言の匂いは、訪れる者みなに熟れて爛れた春を想起させる。

 俗にいう、色街。

 でも、ここは——少年の向かう先は——、ただの色街ではない。

 この数世紀の間にすっかり定着した適合術フォーミング——生後すぐに行われる接種術——および過去百年ほどの間に完成した管理生殖技術により、人類は生命および種の保存に必要とされてきた三大欲求からほぼ解放された。本能とも呼び換えられていた原始欲にとらわれることのない暮らしは、かつてだれも味わったことのない自由そのものだった。

 なにしろ人類は、食事も睡眠も性交も、ほとんど必要としなくなったのである。

 だが、というべきか、むしろ、というべきか、欲望そのものが消えたわけではなかった。

 この街がなくならかなったことが、その証左。

 色を売る幽宮のなかでも、このあたりは細い路地と廃墟が迷宮をなす辺境だ。慣れた者であっても、見知らぬ場所にうっかり迷い込みそうなこのあたりは、昼間でも薄暗く、人気もない。しかしそのじつ、少なくない数の者たちが夜ごと日ごとに訪うこの街の核でもある。

 集いくるのは、人には明かせぬような趣味を持つ者たちだ。

 幼児性愛者ペドフィリア嗜虐嗜好者サディスト屍体愛好家ネクロフィリア。彼らが欲を満たすには、ここよりほかに行くところがない。いくら価値観が多様化したとはいえ、古い倫理観はなかなか揺らがないものなのだ。

 それゆえに、ここ幽宮の子供市場チャイルドマーケットでは値のつかないものはない。この場所におけるこどもとは、穏やかで健やかな愛情の対象ではなく、欲望をむけるべきそれであって、目的を果たすための手段のひとつにすぎない。

 爛れた街を迷いない足取りで進む少年は琥珀の瞳を光らせながら、建物の陰、電飾の疎らな路地など、さびれたなかでもとくに闇苅ばかりを選んで歩く。

 彼は幽宮で躰を売る男娼のひとりだったが、いまの彼には客をとる気がまったくない。次に仕事をするときは死ぬときだと、そう理解しているせいだ。

 容貌は整っていても、経験と歳を重ねすぎた彼に売れるものはほとんど残っていない。売れる臓器は残らず売ってしまったし、そうなると残るは生命だけだ。

 研究とは名ばかりの人体損壊ショーで被験体となるか、人を人とも思わぬ行為にしか快感と興奮を覚えない加虐趣味者に飼われるか、果ては食人愛好家の食卓にのぼるか——。そのいずれを選ぶにも、少年はまだ生きることへの執着が強すぎるのだった。

 ぼくはここではもうだめだ。どうにかして早いとこ出ていかなくては。

 そんなふうに焦る気持ちのすぐ下には、しかし、まだなんとかなるという算段も燻っている。食べるために手を出した古くて新しい商売が、そこそこうまくいっているからだ。だてに長年幽宮で暮らしてきたわけではない。

 夜の色とよく似た濃紺の雨外套レインコートのフードを目深にかぶりなおし、少年はある路地の角で足を止めた。両肩を軽く落とすと同時に白く凍える息を吐く。

 彼が身体を預けるようにして凭れている壁は崩れるのを待つばかりの廃墟のそれで、かつてはかなり大きな高層アパートメントだった。ただ、それは少年が生まれるよりも随分とむかし、幽宮がまだごくありきたりの住宅街であったころのことである。

 少年が身を隠す廃墟の陰からは、万華鏡カレイドスコープというごくごく地味な安宿の玄関が窺えた。もとはいかにも連込み宿然とした悪趣味な外装を誇っていたのだろうが、いまはすっかりさびれているようにもみえる。

 だが、仕事柄、少年はよく知っている。万華鏡がいまこのあたりでもっとも流行っている連込み宿であり、その理由がどんな客も決して断らないからだ、ということを。

 幼いこどもを犯すことも、人の身体を関節ごとに捩じ切っていくことも、腹を裂いてはらわたを啜ることも——。あの宿の中では、どんな非道もどんな猟奇もどんな狂気も、まるでそこにないもののように扱われる。

 すべてを解決するのは、金だ。

 血の色をした悲鳴も、体液で汚れた寝台も、脂の臭いの染みついた床も、なにもかもが金ですっかりきれいになる。客は主人を、主人は従業員を金で飼い慣らし、あらゆる罪を金で濯ぐ。

 あの宿では、金を積んで罪を見逃してもらうことと、許されることとが等しい意味を持っているのだ。

 少年は万華鏡の玄関口をじっと見つめていたが、やおら雨外套のポケットを探ると煙草を取り出した。夜合樹ねむのきという、ドームひかりにおいてはありきたりの手ごろな品である。発火石ライターを取り出して、しばし掌でもてあそぶ。

 火をつけるときも、煙に燻された目許をぬぐうときも、玄関口から視線を逸らすことはない。新しい商売には、少しばかりの忍耐力と集中力が必要なのだ。

 雪に濡れた瀝青土コンクリートに短くなった煙草の吸殻を落として、長革靴ブーツの踵で踏みつける。かすかな音をたてて火が消えた。彼はその音が好きだった。この音を聞くために煙草を吸っている、そう思っていたこともあるくらいだ。

 少年はまた震えた。やせて骨ばった身体を両手で抱きしめるようにしても寒さはしのげない。生活の困窮ゆえの貧相な体格は、彼を年齢よりも幼く見せる役には立っていたが、こんなときには恨めしくもなる。

 万華鏡の玄関口を見つめる瞳の奥には、暖かそうな宿の灯りをうらやむ気持ちが見え隠れしている。あれがどんなところであれ、少なくとも暖かさだけは本物だ、と彼は思った。

「……遅えな」

 知らず言葉が漏れた。

 少年は自分の声におびえるように首を竦め、あたりを見回したが、声を拾う者などだれもいないことをすぐに思い出し、自分を嗤うように、ぶるり、と身を震わせた。

 万華鏡の玄関口に視線を戻し、客の出入りに神経を尖らせる。いまは姿の見えない彼の相棒はいまや両の手の指の数よりも多くいて、彼は一晩で五、六回ほども、こうして待伏せと捕獲を繰り返している。

 遅え、十五分もこんなとこにいたら凍死するだろうが、莫迦が、次に間に合わなくなる、どうしてくれ——。

 万華鏡のなかにいるはずの、名前すら定かではない相棒に向けた脈絡のない悪態は、しかし、そこで唐突に途切れた。

 寒さに思考を奪われ、いらだった少年の脳は、そのとき反対に本能を研ぎ澄ませたのかもしれない。

 背後に薄ら寒い気配を感じた。

 寒気とは異なるそれは、彼にとってはじつに馴染み深く、けったくそ悪い感覚である。

 首筋から背中にかけて肌が粟立つような、悪寒。ゾクゾクと足許が覚束なくなるような震え。

 妖物ばけもの、と彼は身を堅くした。

 この気配を感じたら、できることはひとつしかない。できるだけ自らの存在を殺し、あやかしが通り過ぎるのをじっと待つ。

 少年はぴくりとも動かない。細心の注意を払って呼吸を殺し、全身に静寂を纏う。

 恐怖、焦燥、生きることに対する執着ゆえのそれらを、すべて消し去ること。

 それがやつらの目から逃れるためのただひとつの方法と、知らずに心得ている。

 少年の背後の闇を割って、白い影が顕れた。

 生絹すずしをまとうそれは、一見して女のように思われた。

 むろんこの世のものではない。妖である。

 それは少年のすぐ脇をすり抜け、万華鏡の玄関を飾るやわい灯りのほうへと進んでいく。

 静かな静かな、空を滑る歩み。少年には決して感じられない異界の風に闇色の髪をたなびかせながら、妖はふと表情を変えた。紅い唇が耳まで裂けて、あるいはそれは微笑んででもいるつもりなのだろうか。

 少年の首筋を冷や汗が伝い、ゆっくりと胸を滑って腹まで流れた。滑らかな額にも背中にも細かい汗がびっしりと浮かんでいるであろうことは確かめなくてもわかる。

 現世うつしよがすうっと遠ざかる。

 雪の降り積もる音も、風の冷たさも、煩わしいばかりの地虫や鼠の気配さえも消えて、まばたきすることさえ躊躇われるような、不穏な静謐があたりを包んだ。

 幽世かくりよがひたひたと押し寄せてくる。

 彼の飴色の髪がうっすらと湿り気を帯びるほどの長い時間、妖は宿場の前に立っていた。

 やがてそれは、光のなかで陽炎が形を失くしていくときのように、ゆるゆると明るい灯のなかへと溶けていった。

 妖が完全に姿を消すと同時に闇を含んだ異界の冷気が消えて、辺りに真冬の寒気が戻ってきた。

 少年は大きく息を吐き出した。

 その吐息がはっきりとわかるほどに震えている。脚も肩も緊張のあまり凝り固まってしまって、これではほぐすのに苦労するだろう。だがそんなことよりもいまは、あの妖物にわれなかったことだけが、ただありがたい。

 少年は震える手を叱咤しながら、またもや煙草を取り出して唇にくわえた。見慣れてるだろ、あんなものは、と心のなかで自分自身に向かって叫びながら、発火石で火を点けようとした。

 いいから落ち着け、落ち着くんだよ。こいつを吸ったら、いつまでたっても出てこねえ莫迦ッタレの部屋に踏み込んで、今日の稼ぎを巻き上げなくては。

 妖に気をとられているあいだに獲物を逃したかもしれない——すなわち、美人局つつもたせに失敗したかもしれない——、ということは考えないようにした。約束の取り分はぼくのもんだ。稼ぎが少ないと相棒がわめいたら、そいつは自分のせいだと正論を云ってきかせ、蹴り飛ばしてやればいい。

「おい」

 背後から不意に声をかけられたのは、その瞬間だった。

 誰かに心臓を鷲掴みにされたとしてもそんなには驚くまい、というほどに少年は驚いた。すぐに指先がしびれるほど、急速に身体が冷えていく。

 ゆっくりとうしろを振り返った。唇から落ちた煙草が足下の瀝青土にあたって乾いた音を立てる。その微かな音を耳が拾うほどの静けさが、少年の緊張を増幅した。

 もし、声の主が鬼魅おにどもであったとしたら、逃れる術はない。

「おまえ、いくらだ?」

 涼やかな声である。

 闇のなかにその姿を確かめ、どうやら人間の声のようだ、と少年は重たい息を吐いた。安堵するにはまだ早いし、心臓は早鐘のように打ってはいるが、いやなものを視るときのあの悪寒はない。

 少年は目を細めて声のするほうを凝視する。低く抑えた抑揚のない声音のせいか、彼は声の主の正体を量りかねていた。

 軽い足音とともに、黒い外套を身にまとった人物がゆったりとした歩調で現れる。

 まず目についたのは、腰に届こうかというほどに長いつややかな黒髪。

 それから、目許を完全に覆い隠す濃い色の眼鏡。

 膝下丈の黒い外套の前は喉元まできっちりと釦を留めてあって、なかに着ているものはおろか性別を推し量ることさえも拒んでいる。

 突如として薄闇のなかに現れたその人物は、色街を訪れる客には珍しい、静かで穏やかで、どこか暖かな雰囲気を纏っていた。

 だが、少年は、先ほどとはまた異なる恐怖を覚えた。冷たく凍りつくような氷に似たそれではなく、ぬるくまとわりつく水に似たそれ——。

 気づけばすぐ目の前にまで、その人は近づいてきている。

 濃い色のレンズが隠す双眸は、それでも強い力を持って少年を見つめていた。

「いくらだ、と訊いている」

 あらためて耳にすると、意外なほどに硬い声だった。

 なじるような雰囲気と口調に気圧された少年がなおも黙っていると、その人物は苛立ちを隠さぬ雑な仕草で色つきの眼鏡をはずし、ものわかりの悪いこどもを見据えた。黒い手袋と外套の袖口のあいだから僅かに覗いた薄い手首が、空から間断なく落ちてくる雪よりも白い。すべらかな額も頬も同様だった。

「聞こえていないのか」

 苛立ちのなかに呆れが混じる。波立つその声音が、少年をわれに返らせた。

 なんだ、これはただの人じゃないか、と彼は思う。人ならば怖がることなどあるもんか。

 みずからの畏れを嘲笑いながら、こどもは答えた。

「ぼくは売り物じゃないんだよね、悪いんだけどさ」

 にこり、と微笑むことを忘れなかった。

 生きるための道具のひとつにすぎない微笑が、これまでなにかの役に立ったことはなかったが、身体を売る商売を教えてくれた人が云っていた。涙は身を亡ぼすが、笑みは身を救うこともある。

 意味はさっぱりわからなかった。笑顔のひとつで身が救われるなら、この世はもっとマシになっていてもよさそうなものだし、そう云う当の本人だって、めったに笑ったりなどしなかったのだ。

 それでも身に染みついた習性はなかなか抜けるものでもないらしい。

 警戒心を強めるときほど魅力的に微笑むのは、もはや彼の癖のようなものだった。

 目の前の人物は万華鏡へ向かって数歩を進め、少年を振り返る。

 ほんの一瞬、彼は息をすることを忘れ、その人物に見入ってしまった。

 背を覆う漆黒の髪も、外套もしっとりと雪に濡れたその人物の顔立ちはたぐいまれなるほど美しかったが、なによりもその髪と同じ闇色の瞳が印象に残った。あくまで性別を推し量られることを拒むその人は、男であるとすればあまりに繊細にすぎたが、女であるとすればひどく無骨に感じられた。

 この人になら買われてもいいかもしれない。

 少しばかり前に廃業した屈辱的な仕事に、今夜は悦んで身をゆだねてもいいかもしれない、と少年は思った。この存在に触れてみたい。女か、男か、いや、人ですらないようなこの美しさの前で、その区別は無意味だ。

「そうか」

 氷で創った鈴を振ったなら、この声のような音がするに違いない。そんな、見たこともないものの聴いたこともない音が、その声を表すにはふさわしいような気がした。

「ならば仕方がない」

 その人物は色のついた眼鏡でふたたび顔を隠すと、ゆっくりと宿場に向かって歩き出す。

「ひとりでは、泊めてなんて貰えないよ。あそこはそういう場所だからね」

 嘘だ。あらゆる悪徳を金で売る万華鏡に、拒む客などありはしない。

 闇色の髪が電飾を受け、金と銀の混じる紅色に煌いた。

 笑ったのか。肩越しに薄い唇がなにごとかを呟いたようにも見えた。

 少年は挑発するようにもういちど云う。泊めてなんか貰えないよ。

「……そうなのか」

「そうさ。あそこはそういう宿だ。売り物の春のための宿」

「そうか」

 ふと、鬼魅に啖われそうになるときってのはこんな感じなのかもしれない、と彼は思う。

 恐怖に溶けるわずかな恍惚。あのおそろしさの向こうがわには、啖われてもいいかもしれない、とうっかり思わせてしまうような、そんな誘惑が潜んでいるのではないだろうか。

「なにが云いたい?」

 黒髪の人物の声は薄い笑いを含んでいる。

「わからないの?」

 少年はあくまで強気の態度を崩さない。

「ぼくは高いよって」

「云い値を払おう」

 短い言葉の応酬すら惜しむような苛立ちが感じられる。またもや湧きあがりかける恐怖を抑え、少年は顎で頷いた。

 声を落として値を伝え、久方ぶりの客を万華鏡へと誘う。あるいは人ではないかもしれない何者かを従え、少年は万華鏡へと足を踏み入れた。

 そこが、ほんの少し前、あれほどおびえた妖が身を溶かした場所であるということは、彼の意識の外にはじかれている。

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