第参話 そして紫煙は秋雲に溶け-Ⅲ
二年生に上がっても、もみじと同じクラスになることは無かった。
例え同じクラスになったところで接し方の分からない俺──若しくは彼女もか──にとっては居心地が悪かっただけかも知れないが。
互いが互いの生活に干渉しない日々が当然となって久しく、夏休みも殆ど顔を見ることすら無く過ぎて行った。
そして、二学期が始まって二週間と少し。生活リズムも夏休みモードから復帰しつつあり、再び日常を取り戻した時のことである。
其の日、俺は部活を休んで家に帰っていた。
理由は大したものじゃない。空と風が気持ち良いから。まぁ、要はサボったんである。
だが、澄み渡った空と吹き抜ける涼しい風は──少なくとも俺にとっては──部活をサボるのに充分な理由だった。
自室に帰った俺は、靴下だけ脱いで着替えもせずベッドに腰掛けた。
窓を開け放つと、滑り込んだ風が籠った空気を排斥する。
風を浴びながら空を眺める。空は青く、雲が流れていた。
暫く眺めている内に、締め付けられるような想いに捕らわれた。
此の感情を切ないと言うのだと気付いた俺は、不意に煙草を吸いたくなった。
窓の外では陽が傾き始めていた。
昼から夕へ向かう空は、夏から秋への移ろいに似ていた。
がこん。
予想以上に大きな音を立てて、煙草の箱が取り出し口に落ちる。目の前の自販機は、アパートの襤褸具合とは裏腹に日差しに輝いていた。
アパートの前を通る、日当たりの悪い細い路地は人通りが少ない。と言うか、無い。
誰かに気付かれて学校や警察に通報されることも無い筈であった。制服であるカッターシャツも着替えぬ侭で買いに来たのは、此の為だった。
平然と煙草を手にする。好みの銘柄などは無い。あの時と同じ物であれば、其れで充分だ。
ふと、天を仰ぐ。
──空は確実に、夏から秋へ変わろうとしている。
何と言う訳でも無く、俺は胸中で呟いた。
相も変わらず薄暗い、屋上への階段を一歩一歩登って行く。慎重に登りながら、手は丁寧に煙草の箱を覆うフィルムを剥いでいた。
しかし、マナーを守る優等生の俺はゴミのポイ捨てなぞしない。ちゃんとズボンのポケットに突っ込んでおく。
登り詰めたところで、左手が持つ箱から一本を出して咥える。
シャツのポケットから使い捨てライターを取り出した右手は、其の所作の侭で屋上へのドアノブに絡み付く。
甲高い音を立てながら、重々しい耐火扉が開く。埃っぽい踊り場に無数の光条が差し込む。
俯いて視線を落としながら扉をくぐった俺は、先客と其の表情に最初気付けなかった。
「……長門?」
久し振りに聞いた声だった。しかし其れ以上に、無人だと思っていた屋上で声を掛けられた驚きの方が大きかった。
弾けるように顔を上げた先には、見慣れた中学の女子制服。其れと、久し振りに目を合わせた顔だった。
「もみじ……?」
彼女の驚いた顔が笑顔に変わる。
咥えていた煙草を落としたのに気付いたのは、口角を引いてからだった。
俺は慌てて其れを拾い、箱と共にポケットへ捻じ込んだ。
「久し振り」
「おう」
金の光を反射する、銀のフェンスが眩しい。
其れに凭れて彼女が言う。彼女に近付きながら俺が答える。
「こんな所で、どうしたん?」
彼女の隣まで歩を進めて、何とは無しに訊ねる。
「そっちこそ」
そう言う口調は、詰問と言う風では無かった。
「吃驚したよ」
「そりゃ俺もだ」
あはは、と太陽の方を向いて明るく笑う。
降り注ぐ橙に目を細める横顔。俺の心臓が大きく跳ねる。
──こんなにも、夕焼けが似合う奴だったか?
そう思いつつも彼女に気付かれる前に視線を逸らす。フェンスに右腕を沿わせるように掛ける。
「でもさ、」
「ん?」
「何か嬉しいよ」
「なっ……」
意外過ぎるほど、ストレートな言葉。反射的に一声呻いた後は、何も言えず口を開閉させるしか無かった。
「何よ、其の反応」
本気で怒ったと言う訳では無い口調。拗ねたように俺から表情を隠す其の一瞬前、紅く見えた頬は夕焼けの所為か。
あ、の形に口を開けて一瞬の逡巡。
「俺も──」
掠れ気味の声が、向けられた背中に届く。
「何?」
肩越しに振り向いた目は、悪戯っぽい色を湛えている。
──嵌められたか?
悔やんでも、もう喉の辺りまで出掛かっている。吐き出した方が楽になれた。
「俺も、だよ」
言ってから更に後悔した。当たる陽光の所為以上に、顔が火照る。自分で分かる。
くす、と耐え兼ねたように笑う口元が妙に大人びていて、俺の鼓動が高鳴る。苦しい──が、不快では無かった。
身体を戻した彼女に、誤魔化すような苦笑を返す俺。しかし、
──現金だね、俺もさ。
浮かべた笑みに自嘲が重なる。けど、
──思い出した。
もう、
──もう迷わない。
そう誓う、俺の視線に気付いた彼女が「何?」と振り向く。
其の時、声に鐘の音が重なった。何処かは分からないが、確実に何処かで鳴らしている。あの濁った音が届いた。
「……覚えてる?」
「ん?」
「昔、此処で一緒に遊んでた時。長門、此の鐘が鳴ると大急ぎで帰ったの」
自然に浮かんだ笑顔で言われて、俺は「あぁ」と呻いて苦笑を漏らす。
「ウチの門限、五時だったもんな」
だから此の音が鳴り始めると走って帰った。遊ぶ場所は、もみじの家か此処が殆どだった。走れば何とか間に合うのだ。
「其の所為で突き飛ばされたしね、私」
半眼で言って頬を膨らませる。俺はフェンスに体重を預け、項垂れる。
「まだ言いますか」
「女の子を突き飛ばしたんだもん」
──俺の門限を知っていながら、走り出した俺の前に立ち塞がった方が悪いだろう。
なんて口には出来ないので胸中で呟く。
「私より門限が大事なんて酷いわ」
顔を覆って泣き真似をして見せる彼女。
はぁ、と其れを見て嘆息する俺。再び視線を落とし──と言うか逸らして──言ってやる。
「外出禁止にでもなってみろ、遊べなくなっただろうが」
泣き声が止まる。もみじを目だけで伺うと、覆っていた手の下から笑みが現れた。
にやり、と言う擬態語が此れ以上に似合う笑みも、そう有るまい。
──また嵌められたか。
「今日どしたの?」
「何が」
不愉快、とは言わないが良いようにされているので良い気分はしない。わざと突き放した言い方で問い返す。
「何か、色んな話してくれる」
「……誘導しといて良く言うよ」
自分の顔は呆れを表しているだろうなと思いながら言う。
あはは、と笑って前髪を掻き上げる。柔らかそうな髪の一本一本が、オレンジ色の光を受けて鈍く光る。
「有難う」
俺に正対して言う其の顔に、影が落ちているように見えたのは光の加減だろうか。
妙に改まって言われてしまった言葉への返答に戸惑って、じっくり確認することは出来なかった。
結局、何も返せずに居た俺に、「ねぇ、長門」と、もみじが続ける。
「どしたよ」
「握手」
白くて細い手が差し出された。
「握手?」
当然だが俺は更に戸惑う。小さい頃の習慣……と言う記憶も無い。
「そ、握手」
空に開いた掌が誘う。
「……握手」
答えになってない言葉を出しながら、出された手に俺の手を重ねる。ひやりと冷たくて、柔らかくて小さくて、簡単に壊れてしまいそうな気がした。
──脈が上がってるの、気付かれないだろうか。
そんなどうでも良い心配をしながら触れた俺の手を、もみじの手がぎゅっと握る。俺も応える。
「長門の手、暖かい」
もみじが明るく言う。
「もみじは相変わらず冷たい手してるな」
特に冬場は、すぐに冷えてしまう彼女の手。逆に俺の手は何故か暖かくて、懐炉代わりに良く握られた。
仕方無いな、と言う顔をして手を繋いでやっていた俺だが、悪い気がする筈も無く──寧ろ密かな楽しみにしていたのは内緒だ。断じて。
互いの体温を確認するように絡み合った手が、解ける。
「有難う」
再び感謝の言葉を口にする彼女。陽光に目を細めながらも、口は笑みの形を作っている。
「……先刻から、何だよ其れ」
先は何も言えなかったが、分かった。改まった態度を取る彼女に──若しくは彼女の改まった態度に──、俺は苛立ちを感じているらしい。
此処暫く話しもしなかったことを考えれば御門違いでさえあるだろうが、そんな理屈が男子中学生に通じる筈も無い。
しかし、俺の身勝手な苛立ちにも、もみじは笑うのだ。
「あはは、何でも無いよ」
其れでも何故か、言葉通りに受け止められる。
彼女が俺に笑ってくれる──其れだけで俺は、込み上げる何かを実感出来る。其れは、無性に叫んだり飛び跳ねたりしたくなる衝動に似ている。
「ん──」
両手を組んで伸びをして見せる彼女。それと同時に制服と肌着が上に引っ張られる。
九月も中旬とは言え、まだ日中は暑い。薄いインナーから白い肌が零れて、夕陽に晒される。
俺は慌てて──だが飽く迄も自然を装って──視線を逸らす。
其れに気付きもせずに思う存分伸び切った彼女は、肩から、そして全身から力を抜いた。
「ふぅ。──さて」
私は帰るです、と言って挙手敬礼をした。
「何だ其れ」
俺は笑ったが、
「あぁ、御苦労だった。無事に帰り給え」
と敬礼で返してやった。
妙に真面目な表情の二人。そして数拍の後、どちらともなく笑い出した。
ひとしきり笑った後、
「良し。じゃあ、まぁ、気を付けて帰れよ」
フェンスに背を預け、右手をひらひらと振ってやる。
「うん……って、すぐ下だけどね」
「確かに」
笑う俺に彼女が尚も口を開いた。「て言うか、」
「ん?」
「長門は帰らないの?」
「──あ、そっか」
それもそうだ。部屋は隣同士なのだ、一緒に帰れば良い話である。
「オーケイ、一緒に帰ってあげよう」
散々してやられた反撃のつもりで、俺は言ってやった。
「そう言う言い方するんなら、別に一緒に帰ってくれなくて良いですー」
──どうやら、相手の方が一枚上手だったらしい。
「……すんません。一緒に帰らせて下さい」
そして俺は敗北し、もみじは明るく笑い──あの鐘は鳴り止んでいたのである。
何と言うことは無い会話を交わしながら、二階分の階段を二人で降りた。
其々の部屋の前まで来ると、彼女が俺を見た。
各階の廊下は、屋上ほどでは無いが西日が強く当たる。特に俺から彼女を見ると向こう側に太陽がある為、半眼で無いと堪えられない。
「また、会えるよね」
俺は眩しさも忘れて目を見開いた。彼女の表情は分からない。俯きがちなのは、歪んでいるのは、眩しさの所為か。
「……やっぱ何か変だぞ? そんなこと訊きやがって」
わざとらしく後頭部を掻き、呆れたと言う風に言ってやる。
「当たり前だろうがよ。また会おうぜ」
彼女が顔を上げる。──まただ。また笑顔に影が見える。光の加減だろうか。
「うん、また会おうね」
「おう」
「──ごめん」
頷く俺に、彼女は口の中でそう言い、左手を翳して右手でドアノブを掴んだ。
「じゃあね」
「ん」
きぃ、とドアが啼き、彼女は部屋に吸い込まれていった。
取り残されたような気分になった俺は、ふと気が付いた。
笑顔に影が見えたのは、確かに光の加減かも知れない。
だが、そうであればこそ、夕陽は俺に向かって差しているのだ。彼女が眩しがる訳は無い。俯く理由も、表情を歪める理由も無い筈である。
そして──、
「彼女は“変なことを言って”ごめん、とは言わなかったし……じゃあ“またね”とは言わなかった」
あの頃を頭の中に再現する。意識するまでも無く、リプレイされる映像のディテールはメガピクセルだった。
──そう。彼女は「ごめん」と言い、「変なことを言ってごめん」とは言わなかった。そして彼女は「じゃあね」と言い、「じゃあ、またね」とは言わなかったのだ。
「其れって……」
息を呑むような朱鷺の声。それで俺は、ふと現実に呼び戻される。
「あぁ、御察しの通りだ。其れきり、彼女とは会ってない」
「住所とか、連絡先も……?」
「全く、知らない」
肩を竦めて言ってみせる。
「何で……」
「さぁな。……今にして思えば、あの時に無理矢理にでも引き止めて、訊き出さなきゃいけなかったんだろうな」
だが、其れは出来なかったし、しなかった。
当たり前だ。そんなもん、大丈夫だと思ったのだ。
第参話
そして紫煙は秋雲に溶け-Ⅲ ―完―
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