第参話 そして紫煙は秋雲に溶け-Ⅱ

 始まりは小学四年生の時の話だから、もう八年にもなる。

 俺の住む襤褸アパートの二○五号室に、或る家族が引っ越して来た。父母と一人娘──つまり子の性別が違う以外は俺の家族と同じ構成──の家族で、姓を夕水と言った。娘の名は、もみじ。


「夕方の夕に水って書いて、ゆうみ、な」


「夕水もみじ……さん」


 もう俺の言う「好きな人」が分かったのであろう。少し複雑と言った表情と口調で呟く。

 俺は俺で、少し居心地が悪くなって目を逸らした。




 引っ越して来た理由は詳しく知らない。只、あんなアパートに好き好んで引っ越して来る者は居ない。

 事実、俺の家族も経済状況が好ましくなかったから留まっていたに過ぎない。

 理由は何にせよ、娘にとって不幸なことが一つあった。引っ越した時期が七月末だったことである。


 つまり引っ越したは良いが、転校先の小学校は夏休みに突入していた。

 此れは遊びたい盛りの彼女にとって苦痛でしか無かった。一か月を超える休日を持っていながら、遊び相手が居ないのだ。

 彼女の親は隣の部屋に挨拶をした時、同じ年頃の子供が居ると知って、其の話を持ち出す。


 二○三号室の家主夫婦は快諾し、息子に──朝木 長門に、遊び相手になってやるようにと話を通した。

 しかし、幾ら年が同じとは言え、小学四年生である。男女入り混じって遊ぶ年頃でも無い。




「正直、最初は乗り気じゃなかった」


 苦笑して言う俺。此の辺りは個人の性格や境遇による話だが、朱鷺も思うところがあるのだろう、同じく苦笑で同意する。


 確かに小学四年生と言えば、男女の間に見えない隔たりが出来つつある時期である。

 とは言え別に彼らは、必ずしも互いが互いを嫌っている訳では無い。

 隔たりが出来ると言うことは、同時に彼らが互いに異性を気にし始めていることに他ならない。

 大抵は同姓からの冷やかしを恐れて接しないようにしているだけだ。


「確かに、そんな感じあったなぁ。御互い素直じゃない、って感じ」


 意味ありげに頷いて見せる朱鷺。


 だが今度は夏休みと言う状況が逆に幸いした。

 相手は学校の誰もが知らない転校生で、遊ぶ約束でも無ければ彼らに会うことも無かったからだ。


 最初は乗り気じゃなかった──逆に言えば乗り気じゃなかったのは最初だけで、すぐ自然と遊ぶようになっていた。

 幸い親同士も仲良くなって、二家族して電車に揺られて日帰りの旅行もした。


 其の内に夏休みは終わり新学期が始まる。

 彼女は残念ながら違うクラスになったが、少しばかり安堵したのも事実である。

 対立している筈の女子勢力の一人と仲良くなっていると知れれば、謀反者として相応の処罰が組織から下されるからである。


 ──念の為に言っておくが、此れは決して冗談などでは無い。自分で立つことの成らぬ小学生は、グループを作ることで何とか互いを支え合う。

 其の分かり易い例が、男子であり女子と言う括りなのだ。其処から追放されることにでもなればクラスに自らの居場所は無くなる。


 兎も角、もみじと俺は違うクラスになった。しかし其れは交流の断絶を意味せず、帰宅後や休日等は変わらず遊んでいた。






 そして其の侭、中学に上がった。


 ──いや、其の侭と言う表現は正しくないかも知れない。御互い違う部活を始めたこともあり、会う時間は確実に減っていた。


 一方で男女間の壁は、確実に崩れつつあった。少しずつだが男女の二人組が帰宅する光景を目にする機会も増えていた。

 そんな中、今度はクラスが離されたことを恨んだ。


「……つっても、本当に恨んでたかどうか」


 自嘲の笑みと共に吐き出す俺。


「どう言うこと?」


 きっと彼女にとっては苦しい話を聞かされている。にも関わらず極自然な──内心は分からないが、少なくとも俺が見ている限りでは──調子で朱鷺が問う。


「俺が、もみじを……」


 口の中が苦い。


「一番と、思っていなかった……かも、知れない──って、こと」


 まさか今更、昨日吸った煙草の所為と言うことも無いだろうに。


「クラスで女子と話してて普通に楽しかったし……其の中で──気になった娘も、居た」


 朱鷺は黙して聞いている。口の中が苦い。


「彼女に──もみじに、どう接して良いか分からなくなってた。避ける、とまでは言わなくても、」


 ──あぁ、畜生。


「わざわざ時間を取って遊ぶことも……会うことも、減ってった」


 口の中が苦い。






第参話

 そして紫煙は秋雲に溶け-Ⅱ ―完―

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