第参話 そして紫煙は秋雲に溶け-Ⅳ
其のツケは翌日の同刻、早くも回って来ることになる。
チャイムを押しても、ノックしても、反応の無いドア。
「今日はー、長門ですー」
早くなる動悸を認めたくなくて、平静を装ってドアの向こうに声を遣る。
三秒、四秒、五秒――返事は無い。代わりに西日と共に烏が、かぁ、かぁ、と啼く。
其の声に俺は、身体を震わせて振り向いた。三つの黒い点が、オレンジの世界を滑るように飛んで行く。
そして追い討ちを掛けるように──あの鐘の音が響いた。
遠くから、微かに。遠くから、確実に。
オレンジの空気を震わせ、金に舞う埃を揺さぶり、俺の背中に触れた。
音は俺の背中に当たると全身を這い回り、その蠢く感触に産毛が逆立った。汗が吹き出たが、暑さの所為で無いことは明白だった。
怖い。
──そう、其の時の俺は怯えていた。
鐘の音は鳴り続けるが、逃げることも出来ない。急き立てられるように、奮い立たせるように──逃げ込むように、ノブを捻ってドアを引いた。
きぃ、と一声だけ啼いて、ドアは開いた。
其処には見慣れた間取りがあった。其れは我が家が同じ間取りだからと言うことでもあるし、実際に良く見た夕水家の間取りだからと言うことでもある。
だが、夕陽を受ける玄関には唯の一足も履物が無かった。
心地良い日陰の涼しさを満たした台所には、冷蔵庫が無かった。食器はおろか、棚が無かった。テーブルが無かった。テレビが無かった。壁の至る所に掛けてあった写真や、もみじが描いた絵も無くなっていた。
──そう、あそこには二人で写っている写真が飾られていた。小六の冬休み、珍しく雪が積もった時の写真。いつの間にか無くしてしまい、つい昨日、取り戻そうと決意した風景だ。
其処からは一切の生活感が欠如していた。家具と呼ばれる物の他、凡そ生活用品らしい物は一つも見付けられなかった。
頭の中が真っ白になった。──いや、色も分からない。目に見える物が何もかも信じられず、視覚も聴覚も何処か違う所へ飛んで行ってしまったかのようだった。
玄関から差し込む強い陽の熱と、響き続ける鐘の音だけが俺を現実に繋ぎ止めていたが、其れでも俺は、離れた所から俺を見ているような気分だった。
「おう、朝木さん家の坊主じゃねぇか」
低い声が背中にぶつけられた。俺は首を巡らせることも出来ないように思えたが、視界は白髪混じりの男性を捕らえていた。皺を刻みながらも脂を失っていない顔──此のアパートの大家だった。
「夕水さん家な……。何か知らんが、突然出て行ったよ」
「何か……聞いてませんか」
自分が自分で無い感覚とは、こう言うことを言うのだろうか。自分の声を録音して聴いてみると全く違う声に聞こえるように、誰が発した声かを判別するのに少し時間が必要だった。
「何も聞いてないし、訊きもしなかった。まぁ──こっちとしちゃ、貰えるもんが貰えりゃ構わないしな」
脳と心臓が一気に炎上した。次の瞬間、俺は大家の襟首を締め上げていた。
「手前ぇ……っ」
何故そうしたかは分からない。
だが、勝手に息を荒くしている俺に、「……坊主、」
大家の声は冷静だった。
「詮索屋は嫌われるぜ」
恐らく、此の襤褸アパートを経営して行く秘訣であり──人生の先輩としての忠告だったのだろう。
其れでも、
「其れでも──其れでも俺は……っ!」
「離せ」
大家が鬱陶しげに右手を振るうと、俺は無様に尻から墜ちた。
「ほら、さっさと出てくれねぇか。空き部屋だからって勝手に入られちゃ困るんでね。──ほれ、俺ぁ鍵を掛けに来たんだ」
ポケットから小さな鍵を取り出す。何とも安っぽい鍵だが、夕陽を受けて金色に光っている。
俺は何も言えないままに立ち上がり、廊下に出た。
ドアが啼き、空き部屋として──元・夕水邸として、閉鎖する。鍵が掛けられ、其れは完全な物となった。
「そうそう」
鍵をポケットにしまうと、大家は思い出したように言った。
「夕水さん家の嬢ちゃんにな、返しといてくれって頼まれた」
そう言って左手を差し出されて初めて、大家がCDケースを持っていることに気付いた。
ハートに包帯が巻かれた、手描きタッチのジャケット。
あれは確か、中二に上がる前の春休みだったか。久し振りに声を掛けられたから何かと思えば、貸してくれと頼まれたのだった。
「有難う……御座います」
「あぁ、料金外だがサービスにしといてやるよ」
じゃあまたな、と言って大家は背を向けた。
俺は何も言わず、CDに目を落とす。シンプルで優しいジャケット。
──でも。
そう言えば──そう、良く考えてみれば可笑しな話だ。まさか──いや、でも。何故だ?
疑問符を次々に浮かべている俺は、大家の足音が止まったのに気付かなかった。「お前ら、」
反射的に顔を向ける。
「中坊んなって話さなくなったと思ってたが──」
大家の背中は、右肩から袈裟懸けに橙の光を受けている。其の姿は歳を感じさせないように見える。
「嬢ちゃんは、ちゃんとお前を見てたんだなあ」
そうだ。此のバンドの曲を聴くようになったのは、もみじと話さなくなってからだ。俺が此のCDを持っていると、どうして彼女は知っていたのか。
何も言えず、再びジャケットに視線を落とす。
「へっ、良い娘じゃねぇか。お前にゃ勿体無ぇぐれえだ」
足音が再び聞こえ始め、遠去かって行く。
「こんな所で洟ぁ垂らしてる、糞坊主にはよ」
──五月蝿い。
そう言おうとして、喉の奥から言葉は出て来てくれなかった。
包帯を巻いたハートが滲んで見えたのは、紛れもない事実だったから。
紫の掛かった空に烏が一声、二声と啼くまで、俺はジャケットを見詰めていた。
──鐘は、いつしか、鳴り止んでいた。
第参話
そして紫煙は秋雲に溶け-Ⅳ ―完―
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