第弐話 立ち昇る紫煙は語ること無く-Ⅲ

「煙草……吸うんですか?」


 そう言う彼女の声には、明らかに非難の色が混じっていた。


「……昨日、父方の祖父の命日でね」


「関係無いでしょ」


 苦しい言い訳だと思ったのだろう、苦しい笑みを浮かべて言い放った。

 俺は其れを受け止め――数拍置いて深く息を吸う。


「祖父さんさ、ヘヴィ・スモーカーだったのよ」


 両手で箱を弄びつつ、俺。右手の親指が大書きされた銘柄を撫でる。


「俺は俺で祖父さんが大好きで……死んだ時は凄ぇ泣いたんだ。もう小六だったんだけどな」


 苦笑して言う俺に、朱鷺は神妙な顔を作って黙り込んだ。


「んで、葬式の……焼いてる時だったかな、親父が吸ってたんだよ。親父が煙草やるの見たのは、初めてだった」


 一呼吸。

 朱鷺の方に顔を遣ると、彼女は俺を見上げて居た。


「まだ泣いてた俺の頭を撫でながら親父が言ったんだよ。『祖父さんが死んで哀しいなら、お前も吸っとけ。祖父さんの代わりに吸ってやれ』ってね」


「御父さん、小六の息子に吸わせたの?」


 驚いて、朱鷺。


「そう言うこったな。或る意味、凄い親父だと思ってる」


「或る意味、ね」


 俺の言葉に朱鷺が呆れて笑い、俺も一緒に笑う。


「んで親父は、俺の煙を祖父さんに教えてやれとも言ったんだ」


「俺の、煙……?」


 朱鷺が鸚鵡返しに問う。


「そう。朝木長門の、煙」


「どう言うこと?」


「祖父さんが俺の煙を知ってくれれば、次に俺が吸った時も気付いてくれる。そうすれば祖父さんは、いつでも俺のことを見ててくれる――と言うことらしい」


 自分で言ってて少し恥ずかしい。いや、まぁ、親父が言ったことなのだが。


「御父さん、ロマンチストなのね」


「いや、恥ずかしいから辞めて。未だに実行してる俺も俺だし」


 左手を上げて遮る仕草と共に許しを請う俺。


「長門さんもロマンチスト?」


「本当に、もう、辞めて下さい。ごめんなさい」


 俺の懇願に朱鷺が明るく笑った。雰囲気が和み、吊られて俺も笑って見せる。


「でも、」


 微笑んだ朱鷺が口を開く。


「少し良い御話」


 そんなことを言われると何だか背中の辺りが疼く。「ん、まぁ、」


「あれなんですよ、実際は年に二本か三本吸って、後は捨てちゃう。此れも本当は、昨日の内に捨てちまえば良かったのに」


「捨てなかったから、私に見付かっちゃった訳だ」


「仰る通りで」


 箱をポケットに戻し、肩を竦めて同意する俺に、またも朱鷺が「あはは」と笑い声を上げる。


 彼女の笑みは気持ちが良いと思う。元気で、嫌味の無い笑み。其れを掲げる横顔は、空を射抜く橙の光が良く似合う。まるで――……


「……長門さん?」


 視線の先で彼女が首を傾げた。其処で初めて、俺が彼女を見詰めていたのだと気付いた。


「あ、いや、何でも無い」


 軽くかぶりを振って言う。別に悪いことをした訳では無いが決まりが悪い。


「……? 大丈夫ですか?」


「うん。“ちょっと、ぼうっとしちゃっただけ”」


 彼女が先刻言ったフレーズを、そっくり返してやる。

 むぅ、と膨れる朱鷺を見て俺は口角を引く。


 ――其の時だった。






 遠くから、微かに。

 遠くから、でも確実に。


 聞き覚えのある、あの音が此処に届いた。自分も驚くほどの冷静さで、其の音を頭の中で反芻する。同時に記憶の中の音を再生する。あの時の音を。一か月前の音を。そして今、尚も聞こえて来る音を、其れに重ねる。

 ふと其の音が聞こえた方を振り向く。何が見えるでも無い。其処には唯、濁った音を響かせる、輝く空気があるだけだ。


「……鐘、だね」


 俺は、ぼそりと口にした。しかし朱鷺の答えを聞くまでも無く、俺は確信を得ていた。いや、其れを言うのであれば若しかすると、反芻も再生も要らなかったかも知れない。


「え? あぁ」


 突然で何のことかと訊ね返した朱鷺だったが、すぐに理解してくれたらしい。


「五時の、十七時の鐘ですね。此の鐘、変なの。決まって此の時間に鳴らすのに、五回でも十七回でも無いなんて」


 笑って教えてくれる朱鷺。うん、俺は良く知っている。


「いつも鳴るんだ?」


「うーん、どうなんだろ。毎日は聞かないかなぁ。意識して無いだけかも知れないけど」


 矢張り、か。胸中でごちる。


 朱鷺が続けて口を開く。「でも、」


「此の鐘がどうしたんです?」


「大したことじゃないよ」


 言いながら俺は立ち上がる。一歩、二歩と小さく踏み出し、木を模した柵に右手を掛ける。

 朱鷺に背を向けた侭、我知らず左手をジャケットのポケットに滑り込ませる。煙草の箱の、がさ、と言う感触を知覚して初めて、自分の動作を認識した。


「ウチでも聞こえるんだ、此の鐘の音」


 言って振り向く。柵に凭れて朱鷺に正対する。左手はポケットの中で箱を掴んでいた。

 其れには答えず、彼女も立ち上がって柵に近付いた。俺の隣で両手を柵に掛け、乗り出すように空を仰ぐ。


「綺麗な空」


 そう言った彼女の表情と、陽光を受けて輝く黒髪を、ふと吹き抜けた気持ちの良い秋風が撫でる。


「そうだな」


 ふっと優しい気分になって、そう返す。


 ――何故だろう。


 妙な感覚が俺を走る。肺を締め上げられるような、持ち上げられるような。不快では無いのだが――何か息苦しい。


「長門さん」


「ん?」


 呼ばれて、俺は朱鷺の方に顔を向ける。


「どしたよ」


 夕焼けに染められた彼女の表情は、矢張り明るい笑顔だった。俺の心臓が一際大きく跳ねたのは、其の中に含まれた哀を見たからか。


「――私、」


 口内に溜まる唾液を嚥下したのは、俺か――彼女か。


「長門さんのこと、」


 其れとも両者か。


「好きだよ」






 ――鐘は、いつしか、鳴り止んでいた。






第弐話

 立ち昇る紫煙は語ること無く-Ⅲ ―完―

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る