第参話
其の日は良い天気で、奥さんは朝から気持ち良く洗濯物を干しておりました。
と、自転車が一台、庭の前で止まりました。どうやら郵便配達員の様です。
「御早う御座いまァす」
配達員の声に奥さんは笑顔で、
「あら、御世話様です。有難うね」
「いえいえ、其れより御目出度う御座います」
そう言って配達員は一通の手紙を渡しました。
手の中の其れを見た、奥さんの笑顔が凍り付きます。
「其れでは、私は此れで」
硬直した奥さんを介する事無く、配達員は再び自転車に跨りました。
配達員の姿が見えなくなっても、奥さんは其処を動けませんでした。
「あ、貴方……」
崩れる様に居間の扉を開けた奥さんは力無く言いました。
「此れ――」
差し出された手紙を主人が無言で受け取ります。
或る程度の覚悟は出来ていたのでしょうか。落ち着き払って溜息を一ツ吐くだけでした。
「ど、如何しましょう」
奥さんが狼狽えます。如何しましょうも何も無いのですが、今の奥さんに斯様な理屈が通用するとは思えませんでした。
ですから主人は、
「……呼びなさい」
とだけ言います。
ですが奥さんは、
「しッ、然し――」
そう呻いて尚も喰い下がります。
主人と言えど、純粋な感情としては奥さんと大差有りません。――有る訳が有りませんでした。
違う点が有るとすれば、純粋な感情だけでは済まない問題である事を、主人は良く理解していたと言うだけです。
「呼びなさい」
あらゆる感情を押し殺して、主人は再び同じ事を言いました。
奥さんも若しかすると其れに気付いたのかも知れません、泣きそうな顔と消え入りそうな声で、
「……はい」
と言って、扉から出て行きました。
数分と経たない内に、死人の様な顔の奥さんが――既に何かを察している様な表情の――息子を連れて居間へ戻って来ました。
座する主人は、表情硬く息子を見上げます。
其れを受けてかは分かりません。只、息子は何の言葉も無く主人に向かい合って座りました。
主人の視線と息子の其れとが交わります。
数瞬後、息子は無言で頷きました。
其れを見て主人も心が決まったのでしょう。先刻奥さんが持って来た一枚の手紙を息子へと差し出しました。
「……お前宛だ」
搾り出す様に、そう言うのが主人の精一杯でした。
表情を変える事無く息子は其の紙片を受け取ります。
〈徴兵召集令状〉
とうとう来たか。
息子の表情は、そう言っている様にも見えました。
文句も逃避も悪態も、息子は一切を口にしませんでした。
唯々、現実を受け止めました。
重い沈黙を破ったのは、意外にも息子の――厳然とした――言葉でした。
「征って参ります。御父様、御母様」
其れを聞き、主人は下げていた視線を息子へと戻しました。
然し主人が口を開くより早く、奥さんが泣き崩れてしまいました。
「如何か――如何か、生き、て……」
其れ以上は嗚咽となって漏れるばかりで、言葉にはなっていませんでした。
奥さんが啜り泣くのを一瞥して、主人は口を開きました。
「其の、通りだ」
噛み締める様な口調です。
息子は主人の言葉に正面から向き合います。
「武勲なぞ、要らない。物言わぬ英雄に、価値は、無い」
「――私は、」
一度頷いて、息子が言を継ぎました。
「私は、此の数週間……ずっと考えておりました」
俯く息子。
「若し私が征くとしたら――何の為に、征くのであろうかと」
「……何の為だ?」
主人の問いに、息子は一息置いて答えました。
「分かったのは、國の為だとか未来の為だとか……
そんな事を背負うには、私は余りに小さ過ぎる存在だと言う事でした。ですが、」
視線を、ちらと主人に向けます。主人は覗き込む様に息子を見ていました。
「私は、護りたいのです」
「…………」
意を解しているのか、いないのか。主人は黙して息子の言葉に耳を傾けます。
「御父様を、御母様を。そして……あの娘を」
「馬鹿野郎!」
主人は突然、息子の頬を拳骨で殴り付けました。
もろに喰らった息子は堪らず転倒します。
「貴方!」
「五月蝿い!」
奥さんの非難を一蹴した主人は、立ち上がって息子を見下ろしました。
息子は切れた唇から流れる血を手の甲で拭いました。
「自惚れるのも大概にしておけ!」
紅い滲みを確認する息子に、主人の怒声が降り注ぎます。
「お前は、お前の事だけ考えていれば良いのだ!」
息子の視線は主人を捕らえようとはしません。
「お前は……お前はッ――!」
何時の間にか怒声は呻きへと変わり、
「もう良い」
握り締めていた拳は解かれていました。
「いけ」
「――はい」
そうとだけ応えて、息子は居間を立ち去りました。
「貴方……」
息子を見送った奥さんが主人を振り向きます。
「……五月蝿い」
主人の頬は、光っている様にも見えました。
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