第弐話
「ふむぅ……」
息子は道を歩いていました。
右の手だけで本の尻を支えて、何やら難しげに唸っています。
と、其の後ろから女の人が追い付きました。彼女は息子の恋人です。
「また本を読みながら歩いていらっしゃるのね」
からかう様な弾む声を聞いて、息子は漸く振り返りました。
「うん?」
其処には自らの愛する人が笑顔を浮かべて立っていました。
「御早う御座います」
「あァ、君か。御早う」
明るい挨拶に、息子もまた笑顔で応えます。
本が気になる恋人は、息子の手にある本を覗き込もうと努力しますが、恋人の背は息子の其れよりもかなり低く、無理な様に感じられました。
「今日も難しそうな本を読んでいらっしゃいますのね」
諦めた恋人は、取り敢えずの推測を付けてそう言いましたが、息子の反応は意外な物でした。
「いや、此れは其れ程、難しい本では無いのだよ」
「あら、じゃあどんな内容の本なのです?」
予想が外れて、少し拗ねる様に恋人が問い詰めます。
「簡単に言えば、詩集だな」
其れを聞いて、恋人は笑ってしまいました。息子の印象とは余りに掛け離れていたからです。
「詩集ですって? 貴方が? ふふふ」
息子は少し――本当に少しだけむっとして、
「心外だな」
と言いました。
「私だって詩集を読みたい時もあるさ。読み終わったら君にも貸してやろう」
「まァ、本当ですか? 有難う御座います」
恋人は嬉しそうに御礼を言いました。
息子が恋人の其の笑顔を見詰めていると、恋人が気にして問いました。
「どうしました?」
「……なァ」
息子の表情は暗い物でした。
「はい? どうしたのです? そんな怖い御顔をして……」
飽く迄おどけた様に問う恋人ですが、息子の表情は崩れません。
「若しかして――若しかしての話だが、私は、征かねばならないかも知れない」
此処に至って、恋人の表情が硬い其れへと変わりました。
「え……其れは、まさか――」
「其の、まさかだ。隣町の男は殆ど徴兵されたそうだ。此の町も、何時されるか分からない」
「でも――でも、新聞には……」
縋る様に言う恋人ですが、息子は首を横に振ります。
「良く考えてくれ。“破竹の如く”進攻する軍が、如何して素人の手まで借りなければならないんだ?」
此れは別に主人の受け売りと言う訳では有りません。息子も又、常々そう考えていた様です。
「嫌です。そんな、如何して、如何して貴方が……」
然し既に理屈で如何こうと言う次元ではありません。恋人は今にも泣き出さん表情です。息子の顔を正視出来ていませんでした。
「辛いだろうが、受け止めてくれ。此れが現実なんだ」
「生きて……生きて還って来て、下さいましね?」
恋人の足元を、雫が穿ちました。
「分からない。だが、若しも、若しもだが、無事に帰って来れたら――」
「はい?」
慌てて眼を擦り、恋人は息子を見上げて次の言葉を待ちました。
「いや、今は良い。まだ、征くと決まった訳でも無いしな」
息子は恋人にそう微笑み掛けましたが、其れは何処か哀しみを帯びておりました。
其れに気付いてしまった恋人は、一層込み上げる涙の感情に襲われました。ですが、
「……そうですね。早く終わる事を祈りましょう――」
恋人も又、無理にでも笑顔を作って、そう言わねばなりませんでした。
そして数週間後、全てが打ち砕かれるのです。
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