とはのちかひを

173

第壱話



――私が死んだら、


  貴女は泣いてくれますか?――




――貴女が死んだら、


  私は泣いてしまうでしょう――






 「『我が軍の進攻、破竹の如きなり』か……」


 居間に座る男の人が新聞の一面を読んでそう言いました。

 其の人は随分と歳を取っています。此の家の主人でしょう。

 其れを聞いて女の人が台所から顔を出しました。


 「如何かされたの、貴方?」


 女の人も主人と同じ位、歳を取っている様です。奥さんなのでしょう。

 奥さんに気付いた主人は新聞から顔を上げて、


 「おぉ、お前か。御早う」


 と挨拶しました。


 「朝から難しい御顔をなされて……。何が書いてありますの?」


 「いやな、我が軍の進攻が順調であると、そう書いてあるのだ」


 「まァ――」


 奥さんは口に手を当てて驚きました。


 「そんな事、有る筈が無いだろう!」


 主人は、とても怒って、新聞を床に叩き付けました。

 其れでも主人の怒りは収まりません。


 「隣町では男の殆どが徴兵されたと聞くでは無いか!

 “破竹の如く”進攻する軍隊が、何故素人の動員を必要すると言うのだ?!」


 「あ、貴方……。御声が高う御座いますよ」


 家の中だけならばいざ知らず、余り周りの人に聞こえて良い御話でもありません。

 奥さんは慌てて諭しました。


 「む――」


 そう言われて主人も気付いた様です。釈然としない表情ではありますが、取り敢えず黙り込みました。

 すると、廊下に繋がる引き戸が開きます。

 其処から現れたのは男の人でした。彼は二人の間の息子で、随分若い感じです。とは言っても成人を迎える頃でしょう。凛々しい顔立ちの中に、両親の面影が見え隠れします。


 「御早う御座います」


 「あら、御早う」


 奥さんは息子に笑顔で挨拶しました。

 息子は其れに会釈で応え、主人の方を見ました。


 「どうしたと言うのです、父上? 朝から大声を張り上げなさって」


 呆れた様な息子の問いに、主人は本当に吐き棄てる様に答えました。


 「其処の新聞を読んでみろ。此れを怒らずして如何しろと言うのだ」


 息子は言われた通り新聞を拾い上げました。

 視線は迷う事も無く大書きされた見出しを捕まえます。


 「――成程」


 新聞に目を落とした侭、息子は読み上げました。先迄とは全く違う雰囲気です。


 「だそうだ。隣町の事は知っておろう?」


 「先刻、父上の声にて」


 声色が声色ならば皮肉に聞こえたでしょうが、息子の其れは違いました。

 主人も特に気にする事無く、言を繋ぎます。


 「こんな状況では、最早敗色濃厚と言う物。負け戦に命を落とす者も報われんだろうに」


 其処まで言って主人は溜息を吐きました。

 ですが奥さんはもう少し別の事を気にしていた様です。


 「貴方……。もう少し御声を落として下さいませ。人の耳に触れたら――」


 「む――済まん」


 主人は再び奥さんに諭され、ばつが悪そうに謝りました。

 息子は其れを見て微笑み、新聞を置くと引き戸に手を掛けました。


 「あら、何処へ?」


 「散歩ですよ。身体が鈍ってしまいますのでね」


 少し心配そうに問う奥さんに、息子は笑顔で答えました。


 「気を付けて頂戴ね」


 「有難う御座います」


 そう言って引き戸を開けて廊下に一歩踏み出します。

 すると主人が声を掛けました。低い声です。


 「おい」


 「……はい?」


 若しかすると息子は主人に声を掛けられる事を予想していたのかも知れません。

 ――更に言えば、次に続く言葉の内容も。


 「悔しい事だが――そろそろ、お前も覚悟しておけよ」


 息子は廊下を向いているので主人の表情は分かりません。きっと項垂れているのだろうと想像していました。


 「誠に、悔しい事ですね」


 感情の読めない口調です。そうとだけ言って、息子は廊下へと歩み出し、引き戸を閉めました。

 がらがらぴしゃんと言う音の後、残された二人は少しの間、黙っていました。

 ですが、堪り兼ねた奥さんが口を開きます。


 「あんな事、申されずとも宜しいでしょうに……。彼の子が可哀想です」


 「然し、此れが現実なのだ。突然、突き付けられるよりは、まだ良いだろう」


 奥さんとて、其れは分かっていました。ですが、矢張り、そう言わずには居られなかったのです。


 「其れでも……」


 然し、冷たい様でいて、主人も奥さんと同じ気持ちでした。


 「あァ、早く終わって欲しい物だ。独善とは分かっていても――」


 故にこそ、こう呻いたのです。


 「自分の子供が死にに行く前に」

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