第29話 嵐の後

 ここまで順調だった撮影が、中断してしまった。

 俺の空中アクションに使う予定だったワイヤーに欠陥がみつかり、修理に1時間程かかるということだ。

 クランクアップも間近なので撮影も深夜におよんでいる。

 空中アクションを明日に引き延ばすと他の作業に遅れを出してしまう。

 どうするか監督とスタッフが検討する間、出演者達は少し休憩をとることになった。

 コンコンとノックしてクリスティーンが、俺の控え室に顔を出した。

「差し入れよ。今朝、カルフォルニアの祖母から届いたの。こっちはジュリアに」と紙袋をふたつドサリと置く。

 中にはバレンシアオレンジが入っていた。

「凄くいい匂いだね。美味しそうだ。」

「祖母の庭で採れたオレンジよ。」

「ジュリアも喜ぶよ。悪阻の時もこれだけは食べてたぐらいだからね。ありがとう。」

 クリスティーンは他の共演者にも配るからといって出ていった。

 ライアンも監督達の話し合いがどうなっているか聞いてくるから、その間俺に少し仮眠でもとるようにと言って出ていった。

 気のせいか二人が居なくなると、オレンジの匂いがさっきよりキツく感じられる。

 暇つぶしにオレンジを手に取り、ボール代わりにポンと上に放り投げては受けるを繰り返す。

「… …。」

 何か聞こえた気がして、控え室の外を見たが誰もいない。空耳か…。

 また椅子に座りテーブルに肘をつき、今度はオレンジをテーブルの上で転がしていた。


「ライアン、助けて!」


 サマー⁈

 今確かにサマーの声が聞こえた!

 真っ暗じゃないか!いつの間に電気が消えたんだ!手探りで辺りに触れてみる。

 ここは控え室じゃない⁉︎いったいどこなんだ。

 窓を叩く強い雨と風の音が聞こえる。

 今日は晴天だった。嵐の予報など出ていないはずだ。

 少しづつ暗闇に目がなれてきた。

 ガタン‼︎と何かが倒れた音がする。誰かが揉み合っている気配も…。

 ドアに嵌め込まれたガラス越しに中を覗いたが何も見えない。

 けれど人がいる気配は感じとれる。

 稲妻が青白い光を放ち、そこにいる人影を映し出す。


 サマー⁈


 青白い光の中で見えたサマーは目に怒りを滲ませて、床に倒れ何者かに必死に抗っている。

 乱暴にドアを開け、サマーの上にのしかかっている奴の襟ぐりを掴み投げ飛ばした。

「サマー、大丈夫か!」

 ブラウスのボタンが幾つか取れているのが、見てとれた。

 ジャケットを脱ぎサマーの肩に羽織らせると、ツカツカと投げ飛ばした奴の元に行た。

「このクソ野郎!彼女に何をした!」と言って襟首を掴んで顎がガクガクするほど揺さぶった。

 クソ野郎は、この状況下で勇敢にも口を開いた。

「お前何者だ!ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ。」

 その言葉が俺の野獣本能に火を点ける。

「関係者というなら、俺は大いに関係者なんだよ!」

 拳にありったけの力を込め、顔面に叩きつける。

 再び拳を振り上げ「ぶっ殺してやる!」と叫んだ。

 しかし、その腕にグッと重しがかかる。

「止めて、ライアン…。もう気を失ってる」

 ハッと我に返ると、いつの間にか明かりが点いていた。

 サマーの顔は何度も殴られ腫れ上がって、唇から血が出ていた。

「止めるなサマー、こんなクズ生かしておけない。腕を離せ!」

 いい聞かせると言うより怒鳴っていた。

「ダメよ、これ以上したら本当に死んでしまうわ。貴方を犯罪者なんかにさせられない。犯罪者はこの男なのよ。」

 サマーは必死で懇願するように、俺の腕を掴んで言った。

「ライアン、貴方が助けに来てくれるなんて思わなかった。貴方が来てくれただけで…。」

「シー、静かにサマー、傷の手当てをしないと。病院に行こう。」

 サマーをぎゅっと引き寄せ抱きしめる。

「ライアン、誰か来るわ。隠れた方がいい。貴方に迷惑がかか…」

「かまわない…」

 サマーの言葉を唇で止めた。

 サマーとの初めてのキスは血の味がした。


 バタバタと数名の足音が響き、閉まりかけたドアをバンっと音を立て、部長が入ってきた。

 その瞬間ライアンの姿はパッと消えてしまった。

 ジャケットと後藤和也に傷を残して…。


「香取、何があった⁈」

 私を見た部長の顔が強張る。

 そこへ麻美が部長を押しのけるように私に駆け寄ると、私を覆い隠すように抱きしめた。

「夏、あいつが会社に帰って行くのを見かけて急いで戻って来たの。でも間違いだった。夏と一緒にいるべきだった。」

 私はライアンが現れるまでの出来事を話した。

 そして暗闇の中でわからないが、誰かが助けてくれたと取り繕った。

「御蔵、香取を病院に連れて行ってくれ。俺はコイツを始末する。」

 部長は麻美に指示を出すと、後藤和也を叩き起こした。



 バタンとドアの開く音で意識が戻された。

「レオン、スタッフが頑張ってくれてワイヤーの修理が予定より早く完了したぞ。直ぐにスタンバイだ。」

 はっとする俺に向かってライアンが問いかける。

「お前その手どうしたんだ?しかも唇に血がついてるぞ…。一人で何やってたんだ?」

 俺は恐る恐る自分の手を見た。人を殴った後の拳が赤く腫れジンジンする。そして、その手を唇にあてなぞる。指先に付いたのは、まぎれもなくサマーの血。

 俺は思わず立ち上がり吠えた。

「今すぐ日本に行く。今すぐにだ!止めても無駄だ!」

「お前何訳のわからない事いってるんだ。寝ぼけてるのか?」

「寝ぼけてなんかいない。直ぐに日本に行って守ってやらないといけない人がいるんだ。もう一秒たりとも彼女をあんな危険な場所に置いてはいられないんだ。」

「まあ、落ち着けよ。」

 ライアンは俺の肩を掴んで椅子に座らせた。

「もうクランクアップまで時間がないんだぞ。今お前が抜けたら今迄の皆んなの苦労が水の泡だ。そして、お前の俳優生命は終わり莫大な借金だけが残る。

 日本だろうが宇宙の果てだろうが行きたきゃ行けばいい。だが、撮影が終わるまでは許さない。わかったか!」

 ライアンを睨みつけた。ライアンの言ってる事はもっともだ。けれどサマーの緊急事態に駆けつけ守った興奮から醒める事が出来なかった。

「お前さあ、日本に行くと騒いでいるが、こんな時間にどうやって行く気だよ?プライベートジェットとか持ってないだろ?」

 確かにそうだ。俺は意気消沈した。

 サマーは無事に助けられただろうか?

 今は彼女の無事を祈るしか出来ない無力感と、あのクソ野郎を殺しておかなかった後悔が重くのしかかった。



「夏、話してくれる?まだ話していないこと…あるよね?」

 麻美は今は私を一人にしたくないと言って、私の家に泊まると言ってくれた。

 私も麻美にいて欲しかった。麻美に本当の事を話したかったから。

 麻美は私の部屋に入るなり、いきなり本題を切り出してきた。

 私は後藤和也との事で取り繕った最後の部分の真実を、麻美に話した。

「やっぱりそうだったんだね。」

 と麻美は納得して頷いた。

「そのジャケット彼が残していったの?」

 私はこくりと頷く。

「部長が警察に連絡したって連絡あったよ。アイツ全部白状したらしいよ。夏、明日一緒に被害届け出しに行こう。」

「被害届けなんて出したら会社や部長に迷惑がかかるわ」

「部長言ってた。夏はそう言うんじゃないかって。でも夏が被害届けを出さないと、またアイツは野放しになって次の被害者を出すだけだって。部下の一人も守れない役職なんていらないって。」

「でも、ライアンが…。」

「大丈夫だよ。アイツも暗がりで相手が見えてないし、殴られて気を失ったから殆ど覚えてないよ。それに夏のヒーローが迷惑に思う事なんてある?尻込みする夏を見たら逆に怒るんじゃない?」と言って麻美は笑った。

 そうかも知れない。意気地のない私を見たらがっかりするだろう。

 私は被害届けを出す事に同意した。

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