第28話 夏の嵐

 am8:30 今朝は早めに出勤した。

 早く夏に一昨日見た写真の事を伝えたい。

 けれど実際に私が見た夢ではないのだから、間違いかも知れない。今までTwitterやFacebook、インテリア雑誌、ネットでも思いつく限り探したけれど、どれも空振りに終わって夏をがっかりさせている。あまり期待させない方がいいと思ってはいるが、何故か今度ばかりは手がかりだという自信があった。

 30分も早く出勤すると、さすがに誰も出勤していない。

 コーヒーの用意でもしておこう。夏もそろそろ来るはず。

「麻美…?おはよう。今朝は早いね。珍しいじゃない。」

 どんなふう夏に話を切り出そうかと考えていたから、声をかけられてドキリとした。

「おはよう。夏も相変わらず早いじゃない。夏の分もコーヒー淹れようとしてたんだけど、飲むでしょ?」

「ありがとう。でも雨降るんじゃない。台風が近づいてるみたいだし。」

「人を嵐を呼ぶ女みたいに言うなら、コーヒーあげないよ。」

「ごめん、ごめん、コーヒーください。」

「夏、これ」

「ん?なに」

「アロマオイルとハーブティー。昨日、杏さんの店に行ったらくれたの。寝苦しい夜でもグッスリ眠れるらしいよ。夏にも渡してくれって。」

 夏はカサカサとビニール袋の音を立ててアロマオイルを取り出し、匂いを嗅いだ。

「うん、オレンジのいい匂いだね。嬉しい。」

「火曜日にアロママッサージの予約入れといたよ。」

「えっ、私の分も?」

「たまには自分にご褒美あげないとね。」

「うん、そうだね。」

 夏はニコニコしながらokした。

 女ほどご褒美が好きな生き物はいない。

 明日杏さんの店で、夏にあの写真を見せればいい。

 もしもあの写真に写っている家が、夏の見た夢の家なら、私自身の不確かな考えにも答えが出るだろう。



 今回の映画の撮影もいよいよ大詰めだ。

 俺の出番も残りわずか。プライベートではいろいろあった。波乱続きと言うべきか?

 けれど撮影は思いの外順調だった。それはクリスティーンのプライベートが充実していたお陰かも知れないな。モーニングを持って来た日の事を思い出してにやけそうになる。


「レオン、調子はどうだ?」

 控え室のドアを開けるとライアンが、いつもの様に衣装や飲み物を用意してくれていた。

「ライアン!もう出てきていいのか?」

「ああ、お袋が付いてるし、俺が別の部屋にいてもジュリアは息が詰まるみたいなんだ…。

 撮影も大詰めだしな。お前一人じゃ心配で休んでらんないよ。」

 ライアンは強がって見せたが、かなりキツイ状況なのがわかる。いくら自業自得とは言っても痛々しい。

「俺は先に挨拶してくるから、さっさと着替えて来いよ。」

 ここでもライアンとマギーとの事は知れ渡っているから、居心地悪いだろうと思い、急いで着替えてライアンの後を追いかけた。

 撮影スタジオに入ると、ライアンがカレンに頭を下げていた。

「あら、いやだわ。私は失礼なヘアメイクを叱っただけよ。私が意地悪女みたいな噂流さないでちょうだいよ。」

 カレンは手鏡で髪を直しながら声をあげて笑っていたが、目は笑っていない。

 そして俺を見つけると手招きして、こう付け加えた。

「落とし穴なんてそこいら中にあるものよ。初めて落ちるのは不注意。また落ちるのは自殺行為。誤った行いのツケは自分で払うのよ。」

 カレンの言った言葉は身に沁みた。

 俺は今まで軽い付き合いを楽しんでいるだけだと思ってた。だから相手もそうなんだと。

 今更、尻軽だのプレイボーイだの言われて、腹を立てる筋合いなどないんだ。

 俺さえしっかりしていれば、ライアンを窮地に追い込むことも、ジュリアを悲しませることもなかったかも知れない。

 ライアンもカレンの言葉を噛み締めているようだった。



 昼過ぎには強い雨が降り出し、風が街路樹を揺らした。

 天気予報では夕方頃に台風が、神戸を直撃すると注意報がでた。

「皆んな台風が接近してるから、交通機関も運休するだろう。今日は定時に仕事を終えるようにしよう。車で来てる者は家が近い人を送ってやってくれ。」

 部長からの指示が出たので、皆急いで仕事を片付けはじめた。

 雨足は激しさをましていき、遠くで雷も聞こえだした。

 お客様との打ち合わせや、この天候で施工中の現場状況を確認しに行った者が多かったので、オフィス内はガランとして窓ガラスを叩く雨音だけが騒がしかった。

 夏も今日は営業の人と打ち合わせに出ていた。


「皆んなそろそろ定時だが、どうだ帰れそうか?」

「部長、JR運休になったみたいですよ。」

「車で来てるのは俺と相葉と江藤だな。ひとまず3台で今いる人を送ろう。まだ戻ってない者には連絡してるから大丈夫だろう。

 皆さっさと片付けて、各自気をつけて帰れよ。」

 就業時間までには、外に出ていた人達も殆ど帰社していた。夏はまだ戻って来ていなかったが、連絡が取れていたので心配なさそうだ。

 私達はデスクを片付け地下の駐車場まで行き、それぞれの車に乗り込んだ。

 私は部長の車で送って貰うことになった。

 また一台営業車が帰って来た。中には夏が乗っていた。夏は部長の車に急いで駆け寄ってくる。

「部長、遅くなって申し訳ありません。」

「報告は明日でいいよ。今から御蔵達を送って戻ってくるから、香取はオフィスで待っててくれば送ってやれるぞ。」

「私なら歩いても直ぐ近くですし、タクシーを拾います。」

「そうか?気をつけて帰れよ。」

「はい、部長。麻美また明日ね。」

「じゃあお先に夏。気をつけて帰ってね。」

 夏は部長にお辞儀するとエレベーターに向かった。


 エレベーターで5階のオフィスに着くと、オフィスはガランとしていて、朝早くの静けさとはまた違っていた。

 出退勤ボードを見ると、後二人帰っていない者がいる。

 さて、どうしたものか?外は雨風が凄い勢いだし、この天気じゃタクシーを呼んでも直ぐには来てくれないだろう。

「ひとり?」

 後藤和也がフラリとオフィスに入って来て、普通に声を掛けてくる。

「何か御用ですか?部長なら今出ていますが…。」

「なんでそう素っ気ないの?付き合ってた時期もあるんだから、もう少し愛想良くしてくれていいんじゃないか?」

 そう言いながら近づいてくる。

「もう帰るところなので、失礼します。」

 彼の横をさっとすり抜けオフィスを出ようとしたが腕を掴まれた。

「そんな逃げるように帰ることないだろ?たまには食事でもしよう。こんな天気だし送るよ。」と肩に手を置く。ぞわぞわと鳥肌がたった。

「結構です。手を離して下さい。」

「夏、前は仲良しだっただろ?また仲良くしたいだけだよ。」と耳元で囁く。

「離して!」おもいっきりの力で彼の腕を振り払らい突き飛ばした。

 なんでも自分の思い通りにしないと気がすまない後藤和也は、いつまでも拗ねて強情をはっているだけだと思っていた女に、突き放されてカッとなったのだろう。

 また私の腕を掴んだ。さっきより力を入れ、目つきが鋭い。そして力の加減もなく頬を平手打ちされ、いきなりの衝撃に平衡感覚を失くした私は、勢いよく床に倒れた。

 頬が熱い。

 逃げる間もなく後藤和也は私にのしかかってきた。

 雷がドカンと破裂したような音たて、どこか近くの場所に落ちる。オフィスのブレーカーが落ち真っ暗になった。

 思わず叫んだ口を手で塞がれ、恐怖で呼吸すらままならない。

 きっとエレベーターも止まっている。

 台風のせいで皆早々に帰ってしまた。

 部長は後どのくらいで戻って来るだろう。

 時間稼ぎに身を捩り、手足をバタバタさせ抵抗する。

 容赦なく拳が顔や頭に落ち涙が滲む。頬の内側が切れたのか、口の中に血の味が広がる。

 髪を掴まれ、「男を馬鹿にするとどうなるか、しっかりと教えてやる。」と罵声をあげられた。

 生まれて初めて暴力を受けた。

 痛みより恐怖しか感じない。暴力が人の心を壊し支配するというのは、こういう事なんだ。

 ほんの僅かに残っていた勇気もポキンと折れる音がする。無抵抗でいれば事は済む。少しの間痛みも恐怖も感じない人形になるだけだ。


 オレンジスィートオイルのキツい香りが鼻孔に届く。

 今朝麻美から貰ってポケットに入れたままのアロマオイルの小瓶が、床に倒れた時に割れたのだろう。


 誰か、誰か助けて。

 ライアン…助けて!


 麻美…。麻美ならこんなクズ野郎にされるがままになるなんて許さない。合気道の達人だからだけじゃない。

 私にだって誇りはある。殺されてもかまわない。最後まで抵抗してやる。思い通りになんてさせてやるもんか!



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