第5話 セレブな誘拐犯
さっきから彼の言っている事は支離滅裂だ。
兎に角頭の中を整理しなくては、彼の出してくれたオレンジジュースを飲めば少しは落ち着くだろうか?まさかジュースに薬とか入れてないでしょうね?サスペンスドラマなんかの駆け引きシーンでよく見る相手と自分のグラスを交換する手口も中身がウオッカとあっては、酒に強くない私には無理だ。飲み物の事を考えたら喉の渇きを潤す事が、今一番の望みに思えてきた。そうだいい考えを思いついたわ。
「あの…。お手洗いを貸してもらえないかしら?トイレもしたいし、顔も洗いたいの。」
我ながら名案だと思った。これなら部屋の間取りも見渡せるし、洗面所の水で口をすすぐ事もできる。ちゃんと脱出する出口を把握しておこう。両手を握りしめどうかokだと言ってと祈った。
「ああ、どうぞ。そこの白いドアだよ。」
と彼は左手を指差しながら、あっさりと許可してくれたが、ちょっと待っててといい指差したドアに向かい、すぐに戻って来た彼の手には白いタオル地のスリッパがにぎられていた。そして私の足元にスリッパを揃えて置き、きれいな足が汚れないようにとスリッパを履く事を勧めてくれた。そのスリッパは真新しいかったが、私の足には大きかった。おそらく彼が自分用に用意しておいたのを貸してくれたのだろう。
立ち上がり体の向きを変えて、今まで見えなかった後ろ側の部屋の作りを見てみる。カウンター。その後に造り付けの食器棚。食器棚といっても殆どがお酒のようだ。大きな冷蔵庫。全て黒で統一されていて、まるでどこかのお洒落なバーみたい。その近くにある白い格子でガラスの入ったドアが玄関に通じるドアね。玄関ホールが見える。ひ、広い。これは家じゃなくてお屋敷だ。この人は本当に何者なんだろうと、思わず訝しげに彼を見てしまう。しまった、目があってしまった。
「歩けるかい?ドアまで手を貸そうか?」
「大丈夫。ありがとう。」
彼の大き過ぎるスリッパのせいでペタペタと足音をたてながらトイレに向かう。
トイレだと言われたドアを開け思わず息をのむ。高級ホテルのスイートルームにあるパウダールームってこんな感じかも。泊まった事はないから想像だけど。ナチュラルロブソンのホワイトの壁に嵌め込まれた横長の大きな鏡。一見よそよそしくなりがちな雰囲気だけど曲線を帯びた透明ガラスの洗面台がそれを和らげ、深い緑の床材で気分を落ち着かせる。床材は、たぶん台湾ジャモンの大理石ね。そして、ふかふかと体を包み込むような椅子まで用意されている。一般庶民の私の家にはないことは確かね。しかも私の部屋より広い。トイレだって構わない。ここに住んでしまいたい!
もう私ったらこの緊急事態になに呑気な事考えてるの。
リビングルームの間取りと出口が2箇所あるのは分かった。しかし、こんな屋敷に暮らしている人が私なんかを誘拐する目的がわからない。私から取れる身代金なんてたかがしれている。私に興味があったとしても、彼ならそんな強引な手を使う必要なんてどこにある。お金持ちでイケメンだ。肩まで伸びた黒髪、琥珀の中心にブラックオニキスを埋め込まれたような瞳、肌は女が嫉妬するほど白く、生え始めた髭が疲れを感じさせるが、一層魅力を引き立たせている。その上親切で優しい。そんな魅力的な男が女に不自由するわけない。そう、さっきも私の足をキレイだと褒めてくれたわ。スリッパを脱いで足を伸ばしてみて気がついた。私の足汚れてない。という事は、やはり眠っている間に私の部屋から連れ出されたんだ。彼一人で?誰か仲間がいる?
ブルブルと体が震えだす。
一瞬でも彼の優しい話し方や気遣いを嬉しく感じるなんて、呑気者どころか大馬鹿者じゃない。兎に角冷静にならなくちゃ。洗面所に備え付けられた浄水器で口をゆすぎ、顔を洗うとふかふかの椅子にバフっと音を立ててもたれかかった。
彼の話を要約すると、ここはアメリカのロサンゼルスで夜中の3時を過ぎて、私は見ず知らずの人の家の前に踞っていた。しかもパジャマ姿で…。あくまでも彼の話を信じるとすればだけど。けれど身につけているパジャマは実際に自分の物に間違いない。
最後の記憶は、風邪を拗らせて熱が高くなったので残業を断り定時に退社してから、会社の友人麻美の勧めで南京町の漢方薬の店に寄って薬を調合してもらった。
帰宅してすぐに薬を飲んで眠ったのが18:00頃。そこからは全く記憶にない。
薬は良く効いたみたい。熱もほとんど下がってるようだし。というより風邪どころじゃない状況になっている。
仲間のいる気配がないのが不思議な気がする。
仲間どころか彼以外の誰かが住んでいる気配がない。こんな大きな屋敷に彼以外の誰か、例えば奥さんとか?
「サマー大丈夫かい?まさかまた倒れてないだろうね?」
いきなり彼が呼びかけてきたので、思わず椅子の上で飛び上った。
「私なら大丈夫です。心配しないで」
頭の中を整理しているのを中断されて、少しイラだった。
ダメダメ、今は彼を刺激してはいけない。
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