泡沫のとき

ひらがなのちくわ

第1話 

 桜が舞う。


 何もかもすべてを呑み込んでしまうように、覆い隠してしまうように。はなびらの匂いに包まれて優しい狂気の中で、小さくまるくなった僕は、ただ、その時を眠る。


 また、この季節が巡ってきた。僕の脳みそが新たな記憶を創生せんとばかり躍起になって追い立てるものだから、やたら疲れるんだ。当たり前の日常から隔絶されてしまう、恐ろしい季節。

「季節病って言うらしいね、この時期流行りの。さすが、キミは何でも最先端だよねえ、病の流行も逃さないからねぇ。」

 年配の上司は自慢の大声でもって、得意げに嫌味を披露してくれた。確かにこの慌ただしい時期に、こんなわけのわからない病気で長期休暇とらせてくれなんて、どこの企業だって許可してくれるはずはない。こうして嫌味くらいで済ませてくれているのだから、感謝はしても恨み事など言える立場じゃない、ありがたい、ありがたい。

 感謝しながら、引き継ぎ書類を完成させた頃には、もう終電ぎりぎりになっていた。

 

 見上げると、薄っぺらな月。この季節にはめずらしい透明な風が、薄暗い駅舎を静かに通り過ぎていった。「花冷えか」くしゃみをひとつ。ふるえる僕を最終電車がガタガタ言いながら迎えにきた。


 「季節病」? いいや、そんな単純なものじゃない。僕の中に何かが生まれ、じわじわと侵蝕されていく恐怖。この時期にだけ現れる得体の知れない暗闇に、現実を見失ってしまいそうになる。


 もっと早くに準備していれば良かった。今更愚痴を言ったところでどうにもならない。いつものごとく昨日までの怠け者の自分に軽く文句を言いながら、一泊用の小さなスーツケースを広げた。朝早く出発する予定なので、どうしても今やってしまわないといけない。だけど、腹も減ってるし、疲れているし、捗らないことこの上ない。どうにかこうにか荷物を詰め込んで、あとは忘れ物が無いことを祈ろう。


 「いや、待てよ」

 あるいは僕の認識相違かもしれない。他の季節病患者に確認したことがないのだから、季節病が単純かどうかなんて、決めつけは良くないよな。季節病に失礼だ。

 ただ…。

そう、ただ、はなの匂いに誘われて、記憶が…。記憶が、書き換えられていく。甘ったるい焦燥感にくるまれながら、僕はまたあの日に…還るんだ。記憶の中にだけ存在する…あの女性ひととの懐かしい…懐かしい日々へ。

 僕は思い出しているのだろうか。これは僕の記憶なのだろうか。奇妙な感覚に囚われながら、そのまま深い眠りへと引込まれていった。


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