第9話 畏怖と寵愛


 白黒は片手に剣を、反対の手に美美めいめいの手を取り、必死に走っていた。


 場所はスラム街。家というにはあまりにも粗末な建物が立ち並び、鮮やかさのかけらもない色に満ちている。この世界独特のファンシーな雰囲気を残してはいるものの、その空気は殺伐としていた。加えて、迫り来る恐ろしい気配がそれを際立たせた。


 しばらくして白黒と美美めいめいの視線の先に一枚のドアが写った。道の真ん中、年期の入った木のドアだけが忽然と立っている光景は何とも奇天烈だ。


「あれが出口ね!」


 白黒は美美めいめいから手を離し、ノブを掴んだ。そしてドアを開けーーられなかった。鍵が掛かっている。


 力任せに開けようとしたが、もちろん駄目だった。ならば剣でドアを斬ってしまおうかと咄嗟に考え、剣を構えたところで思い止まる。そんなことをして出口そのものを破壊してしまったら取り返しがつかないと、思い至った。


 刹那、二人は地響きを感じた。恐怖と脅威を孕んだ地響きだ。


美美めいめい、鍵の絵を描いたらこのドア開けられたりしない?!」


 一時の間を開け、美美めいめいは呟く。「……もういいよ、逃げれなくて」


「なっ、何言っているの?!」と白黒は目を丸くした。「あんな怪物に捕まったら大変なことにーー!!」


「いいからもう放っておいてよ!」


 美美めいめいの悲痛な声が響いた。ほどなく美美めいめいはその場にしゃがみ込み、静かに語り出した。


「もういいの。ちょっとだけだったけど、白黒とお喋りできて、私とっても楽しかった。絵にも描けないくらい素敵な時間だった。それがあれば、あいつに捕まって酷いことされても頑張れる。だから白黒、私のことはもういいから、早く元の世界に帰って。白黒が私なんかのために、わざわざ危ないことする必要ないよ」

 

「けどさっき『私もここから出る!』って、急に言い出したじゃない! あれは何だったの?!」


「それも……もういいの。だって、多分もう間に合わないから……」


「間に合わない? だからそれってどういうーー!」


 ドーン! という轟音が白黒の言葉を遮った。


 振り返ると、数十m離れた場所にあった家らしきものが宙を舞っていた。そしてそれが元々あったであろうその場所に、緋猩猩あかしょうじょうはいた。怒髪天どはつてんくように、全身の赤い毛が逆立っている。


「白黒、早く逃げてっ! あなただけでも助かって!」


 ややあって白黒は立ち上がった。そして迷うことなく、緋猩猩あかしょうじょうに向かって歩き出す。


「白黒!? 待って! 何で!?」


「そんなの、決まってるじゃない」白黒は振り返らずに言う。「美美めいめいが助けを求める目をしてたからだよ」


 白黒は剣を握る手に力を込めると、跳ぶような勢いで地面を蹴って走り出した。


 緋猩猩は臨戦体勢に入る。名一杯息をす吸い込んで、大きく胸を膨らませると、白黒との距離が詰まってきた頃合いを見計らって真っ赤な業火ごうかを吹き出した。


 火炎放射機のように放たれた炎を、白黒は反射的にサイドへ跳んで回避した。そのタイミングはかなりギリギリで、白黒の艶やかな髪の先端が炎の熱に焦がされた。それでも彼女は一切心を取り乱さすことなく走り続ける。


 緋猩猩は攻撃方法を変えた。放射し続ける炎ではなく、球状の炎を立て続けにいくつも発射させた。


 無数の火の球が迫り来ても、白黒の足は止まらない。寧ろさらに速度を上げて敵に迫った。火の球は、時に軽快に避け、時に光の剣でぎ払う。服が髪が焦げたり、肌が少し赤くなっても、やはり彼女は動じない。そして緋猩猩の懐に潜り込んだ。


 緋猩猩は咄嗟に平手を上げたが、そんな姑息な攻撃は今の白黒には通用しない。白黒は大きく跳躍してその攻撃を避けると、渾身の力を込めて剣を振り下ろした。


「ヒギャァアアー!!」


 肩から胸にかけてを深く切り裂かれた緋猩猩は、断末魔のような悲鳴をあげながら背後に倒れた。緋猩猩が激しくのたうち回るため、周囲に地鳴りが響き、ポツポツと血が散った。


 地鳴りのせいで白黒は尻餅をついて倒れた。だが剣を杖にしてすぐに立ち上がった。上手く体勢を整えることに成功すると、剣を構える。今や彼女の目からは、生き物を危めることを躊躇する様子は感じられなかった。


 緋猩猩の動きに激しさがなくなりだした。大分体力を消耗したと判断し、白黒は緋猩猩にトドメを刺すべく、足を踏みだそうとした。


「止めてっ! もう止めてぇー!!」


 振り返ると美美めいめいがこちらにへ走ってきていた。その目は今にも涙が零れ落ちそうなほど潤んでいる。


美美めいめい! 危ないから下がってて!!」


「お願い! それ以上ママを傷付けないで!!」


「?!」


 唖然とした白黒の横を通り過ぎ、美美めいめいは緋猩猩に駆け寄った。


「待ってて、今手当てするから!」


 美美めいめいはポケットから小さな茶色いクレヨンを取り出すと、大急ぎで地面に絵を描き始めた。十数秒ほどで絵は完成し、具現化した。現れたのは、彼女の身長ほどもある絆創膏だった。


 緋猩猩の背は小さな血溜まりに浸かり、もはやグッタリとしていた。それでも美美めいめいは、絆創膏を傷口の上に貼り付けた。


「ママ、聞いて。私、ママのこと、世界で一番大好きよ。私みたいな駄目な子のために一生懸命働いて、育ててくれてるんだもん。でも、お酒を飲んで酔っ払ってるママと、私のことを殴ったり蹴ったりするママのことは、世界で一番大嫌いっ……!」


 美美めいめいは感極まって、大粒の涙を零し始めた。それでも彼女は言葉を発することを止めない。


「私が、駄目な子だって言うのはわかってるっ! でもっ、だからっ、だから何でもいいからっ、一度くらいぃママに褒めてもらいたかったの……。『凄いね』って、言ってもらいたかったのぉお!」


 白黒は美美めいめいに傍らに座り、彼女の背中を摩った。


「私ぃ、絵ぇ描くのはちょっとだけ得意だから……もう少し頑張ったら賞とか、そういうの、もらえると思ったのぉ……。そしたら、ホントにもらえたからぁ。これでママに褒めてもらえるって、思ってたのに、なのにぃ……!」


 ふと、緋猩猩の手が動いた。白黒は警戒したが、すぐにそれを解いた。緋猩猩の大きな手は美美めいめいの頭に優しく乗り、そして撫でた。


「ママ……」美美めいめいは手の甲で涙を拭い、笑顔になった。「うん、私、頑張ったよ……。だから今度はテストでも頑張るね……!」


 緋猩猩は一切声を発してはいなかった。だが美美めいめいには何かしらの言葉や思いが伝わったのだろうと、白黒は思った。


 カシャン! という小さな音が聞こえたのはその直後だった。白黒が振り返った視線の先にあるのは一枚のドアだけだ。


「えっ!? でもそれじゃあママが……!」


 白黒は視線を美美めいめいと緋猩猩に戻した。すると緋猩猩が美美めいめいに対し、小さく頷いたところだった。


「……うん、わかった。ありがとう、ママ」


 緋猩猩の手が静かに引かれ、地面に着いた。間もなく美美めいめいは立ち上がった。


「白黒、やっぱり私、白黒と一緒に行く」


 美美めいめいの瞳はいまだ潤んでいた。だがそこには今までにない力強さを宿していた。それを見て白黒はしっかりと頷いた。

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