第6話 恐怖と安心

 緋猩猩あかしょうじょうは四足歩行で白黒と美美めいめいへにじり寄る。その目は爛々らんらんと輝き、二人から一切視線を移すことはなった。


「コホー……! コホホホー……!!」


 ふいごで風を送った時の音のような鳴き声が口から漏れ出る。その度、鼻の奥を綿棒を弄られるような刺激臭を二人は感じた。二人の恐怖心はますます増幅する。


美美めいめい、早く、早く逃げよう……!」


 白黒は美美めいめいに呼びかけた。だが美美めいめいは椅子に座ったまま固まっていた。胸に置かれた両手にグッと力を入れ、恐怖の色で塗り潰された表情をしている。


美美めいめい!!」


 白黒に激しく肩を揺らされ、ようやく美美めいめいは我に返った。


「お酒を描いて! それであいつを引き付けるの!」


「う、うん!」


 美美めいめいは素早く、スケッチブックに酒樽を描いた。そして緋猩猩の目の前に、その巨体に及ばずとも劣らないほどの大きな酒樽を出現させた。


 緋猩猩は一旦退いた。その直後はとても警戒していたが、臭いで気がついたらしくじりじりとそれに近寄り、注意深く臭いを嗅いだり樽に触れたりといった行動を取った。


 白黒は美美めいめいの華奢な手を引いて、徐々に横への移動を始めた。壁の近くまで来たら緋猩猩の横を素早く通り抜け、一気にドアまで突っ走って逃げる作戦だ。簡単で姑息だが、現状、他にできそうなことは何も思いつかなかった。


 しばらくして二人は壁際まで辿り着いた。緋猩猩が酒を飲み始める瞬間を、腰を低くして待つ。


 が、白黒の思惑は見事に打ち砕かれた。緋猩猩が酒樽を掴み、二人目掛けて投げ飛ばしてきたのだ。白黒は咄嗟に美美めいめいの頭を下げさせ、同時に自身も体勢を低くした。酒樽は二人の頭上を掠めるように通過すると、床に当たって大破し、周囲に酒を巻散らばった。


「そんな……」白黒の顔に絶望の色が滲んだ。


 緋猩猩は二足歩行になり、大股で白黒たちに近づいてくる。二人距離を取るために、咄嗟にきびすを返して駆け出した。だがあっという間に部屋の角に追いやられてしまった。


「ここに扉とか描いて脱出できないの?!」


「一度スケッチブックから出した絵には描き足せないよ!」


「それならあいつの動きを止める武器とか道具とか、もう何でもいいから描いて!」


「そ、そんなこと急に言われても、何も思い――きゃああ!!」


 口論している間に緋猩猩は二人の目の前までやって来ていた。そして美美めいめいの身体を片手でわし掴みにした。


美美めいめい!」


 美美めいめいを助けようと、白黒は緋猩猩の足にしがみついた。だが軽く一振りされただけで簡単に払われてしまい、壁と床に身体をぶつけた。


「白黒! 白黒ー!」


 白黒に手を伸ばしながら、美美めいめいは必死に抵抗した。だがまるで歯が立たず、そのまま連れ去られていく。


「……うぅ……めい、めい……!」


 白黒はその様子を見て、自然と歯と手に力が入った。


 今彼女の中に芽生えているのは、緋猩猩に対する恐怖感や絶望感はない。ましてや美美めいめいを助けられなかったことへの罪悪感や悲哀感でもない。今からでも彼女を救わなければいけないという強い使命感だった。


 何故そのような感情が芽生えたのか。今の彼女に、それを疑問に思う考えはなかった。ただ必死に美美めいめいを救う方法を模索していた。


 ややあって、白黒は床を這い、白黒はクレヨンとスケッチブックを手にした。そして白紙のページに絵を描き始めた。


「お願い、お願い! 力を、貸して……! 奇跡が、起きて……!!」


 そう強く懇願しながら、白黒は瞬く間に絵を描き上げた。


 それは一本の剣だった。剣身が柄の倍近くの長さがある大剣で、美しさと力強さを兼ね備えた印象を見るものに与えた。


「お願い、お願い! 美美めいめいを助けさせて、!!」


 白黒の願いが通じたのか、剣は具象化した。そのことだけでも充分に驚きだが、自分の身長に匹敵する長さのそれがゆっくりと白黒の手に収まり、羽毛と同じくらいの重さしかなかったことに、より一層驚いた。例え軽くとも、剣の造りは重厚で、いかなるものでも両断できてしまいそうな鋭い刃だった。


 この剣のイメージが起因しているものに、白黒は気づいていない。というよりも、それを考えることもない。ただただ必死に、頭に浮かんだものをそのままの形でそこに描き落としただけだった。ゆえに完成したそれを見ても、彼女は忘れたことを何一つ思い出せなかった。


 白黒は剣を手に立ち上がると、緋猩猩に勇んで立ち向かった。


 緋猩猩は自分で開けた壁の穴の直前までたどり着いていた。だがここで背後からの足音に気づき、振り返る。


「だああああああ!!」


 白黒は渾身の力で跳躍し、緋猩猩に斬り掛かった。剣を扱ったことなど一度もない彼女のその姿は、構えや型などというものはまるでない不恰好なものであった。だが剣自体に意識があるかの如く、的確に緋猩猩を捕らえていた。


 緋猩猩の腕が深く斬りつけられた。間もなく鳥肌が立つような高音の悲鳴と目を見張るような真っ赤な血飛沫が上がった。それとほぼ同時、美美めいめいは緋猩猩から解放された。


 白黒は美美めいめいを背負い、家から飛び出した。そして全速力で逃げ去った。目指す場所もその想像もなく、文字通り力尽きるまで逃げた。数分後、彼女は顔面から地面に倒れる。


「白黒!!」

 

 美美めいめいは白黒から降り、白黒の身体を仰向けにした。額や頬には擦り傷があり、血が滲み出ている。何より彼女は絵に描いたような疲労困憊の表情をしていた。


「白黒ぉ……ゴメンなさい、私のために、こんなことまでさせて……本当にゴメンなさい……!」


 美美めいめいは泣きじゃくった。涙は大粒の雫型をしており、流れるというよりは落ちるという具合であった。冷たい涙が絶え間無く地面に落ち、青い水溜まりを作り上げた。


 白黒は美美めいめいを見上げる。「美美めいめいは……どこか痛いところとか、ない?」


「わ、私はダイジョウブだけど、白黒が――」


 美美めいめいは言葉を止めた。上半身を起こした白黒に、優しく抱きしめられたからだ。


「私のことは心配しなくていいよ。美美めいめいが無事だったら、それで充分だもん」


 抱きしめられた途端、美美めいめいの中の悲しみや恐ろしさといった感情は、立ち上る湯気のように消え去っていった。そして温かさや安らぎなどの感情が心の奥底から滲み出してきた。


 ほどなく美美めいめいも白黒に抱き着いた。涙は依然として止まらない。だがそれは決して冷たい涙ではなかった。

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