第3話 名前と題名

 幼い少女は十歳前後の容姿だ。黒髪は後ろで一本の短めの三つ編みにしている。そしてフリルがふんだんに装飾されたファンシーなドレスを着ていた。だがドレスが汚れることを厭わないのか、彼女は地面に俯せに寝そべって手を動かしていた。その手には使い込まれたクレヨンが握られており、それを夢中で動かしたり持ち変えたりしている。彼女がその場に何かを描いているのだと、少女は察した。


(あの子が美美めいめいちゃんなのかな……?)


 少女がゆっくりと幼い少女に近づくと、ほどなく幼い少女は少女の存在に気づいたらしく、首をぐっと後ろへねじった。高価な黒真珠のようなつぶらな瞳を少女に向け、ジッとその姿を見つめていた。


「こんにちは」


 少女はできる限り柔和な表情と声色で幼い少女に話しかけた。しかし彼女からは全くの無反応だったからに、一時妙な静寂が二人の間に生まれた。


「え、えっと……間違ってたらゴメンナサイ。あなたが美美めいめいちゃん……美美めいめいさんですか?」


美美めいめいでいいよ」美美めいめいと名乗った幼い少女はクレヨンを箱に戻した。「題名なまえに『ちゃん』とか『さん』を付けるのは変だから」


「そ、それもそうだね……」


 少女は少し疑問を残しながらも、手を伸ばせば届く距離まで美美めいめいに近づいた。彼女の手元には大きなスケッチブックがあり、画面には一軒の家の絵が描かれている途中であった。茶色と黄緑色の面積が多いため、木を掘って作られた家を彷彿とさせるデザインであった。


 美美めいめいは身体を起こし、脚を両側に折って座った。「お姉さんの名前は?」


「それが……自分でもわからないの」


 少女は美美めいめいに事の経緯を簡単に説明した。同行者がいたような気がすること、猫のような子犬に出会ったこと、美美めいめいに題名をつけてもらおうと提案されたこと、大きくて赤いオランウータンと遭遇したこと……。大方話し終えた頃、少女の中にあった諸々の不安や緊張は半分近く軽くなっていた。


「それで申し訳ないんだけど、私に名前をつけてくれないかな? 名前がないってだけなのに、何だか妙に落ち着かなくて……」


「んー……つけることはできるけど、でも止めておいた方がいいと思うよ」


「どうして?」


「だってお姉さんは


 少女の頭上に疑問符が浮かんだ。


 美美めいめいはスケッチブックを持ち、ページを前へ数枚めくった状態で少女に画面を見せる。そこには飾り気のない手鏡が描かれていた。そしてその鏡面には少女の顔がありありと映し出される。


 少女は思わず口に手を当てる。「えっ、これが私?」


 少女が思い描いていた自分の顔と実際に鏡に映った顔は、少し様子が異なっていた。またそれは。この世界が幼い子どもがクレヨンで描いた世界であるならば、少女の容姿は、表現技法を習得し始めた十代後半くらいの若い人物が描いた油彩の肖像画だった。美美めいめいと少女の顔の作りを比較すればその違いは一目瞭然だ。少女の顔はよりリアリティがあり、加工した写真と言っても差し支えなかった。


「私が題名なまえをつけちゃったら、お姉さんは私のモノになっちゃうから、自分で名前をつけた方がいいよ」


「あなたのモノになっちゃうとどうなるの?」


「多分、元の世界には帰れなくなっちゃうんじゃないかな、よくわからないけど」


「んー……確かにそれは困る」少女は腕を組む。「でも名前を思い出せないのに題名なまえをつけるなんて……」 


「何でもいいんだよ」美美めいめいは大きくてを広げた。「何にも思い出せないなら、その時のインスピレーションとノリで決めちゃおうよ」


 そうは言ってもなぁ、と少女は首をひねった。自身に関する記憶も曖昧模糊あいまいもことしているからに、インスピレーションも何もないのが現状だ。それゆえノリに任せるしかなく、いくつか候補はあるのだが、あまりにも安直で気恥ずかしさがあった。


 少女が考えあぐねいて、早五分が経過した。美美めいめいは大人しく題名なまえが決まるのを待っていたが、いい加減飽きてきている様子で、何度もスケッチブックをチラ見していた。それを感じた少女の口からは大きな溜息が漏れた。


「もういいや、これで……」


「あ、決まったの? 教えて教えて!」


「私の題名なまえは--」




「ウェイミー?」


 名前を呼ばれ、ハッとして横を見る。数m離れた場所にライトが立っていた。


「あ、ゴメン!」ウェイミーは駆け足でライトの傍らに戻った。


「何かあった?」


「ううん、ちょっと気になる絵があったから、つい見入ってただけ」


 咳ばらいが聞こえた。二人の少し前、顎髭あごひげを蓄えた初老の執事によるものだ。細い目が二人にジッと向けられている。


「失礼しました。向かってください」


 ライトがそう言うと、執事は何も言わずに歩き出した。ライトとウェイミーは彼の後ろにピッタリとついて歩く。


 執事の様子を窺った後、ライトはウェイミーの手を握り、を伝えた。「ちなみにどんな絵だったの?」


「それがね、何にも描いてないの、真っ白。よーく見たら何か描いてあるのかなって目を凝らしたけど、画用紙が額に収まってるだけだったんだよね。あ、サイズはノートの見開きくらいだったよ」


「ふーん、あぶり出しでもするのかな?」


 幾何学的な刺繍が成された絨毯が敷かれた長い廊下を歩き続けること数分、執事はある扉の前で足を止めた。そこには白い両開きの扉がそびえている。


「繰り返しになりますが」執事はライトとウェイミーに身体を向ける。「主との面会は十分間に限りでございます。時間になりましたら、容赦なく部屋から出させて頂きますのでご了承ください」


「承知しました」ライトは凛として答えた。


 執事は扉をノックした。ほどなく、羽虫の羽音のような音量で「どうぞ」という声が室内から聞こえた。執事はゆっくりと扉の片側を開け、二人を中へ通した。


 室内は落ち着いた雰囲気だが、やはり高級感は存分に漂わせていた。装飾の細かさや上品さから、それが煩わしいほど二人に訴えかけてきた。


 それはさておき、部屋の向かって左奥、ガラス張りの壁のその傍らに、天蓋付きのベッドがある。そしてベールが上げられたその中には、妖艶かつ薄弱な印象を受ける女性がの姿があった。

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