第2話 赤猿と赤炎
「おーい、
子犬はドアの前に二足で立ち、大声でそう言った。だがしばらく待っていても、何の応答もなかった。
留守、というわけではない。先程から不定期に、大なり小なり物音が聞こえていたからだ。加えて少女は、室内から異様で不快な気配を感じ取っていた。その気配はまるで、体中に無数の虫に纏わり付かれ、ジワジワと肉を食い荒らされているような感覚がするものだった。
「おっかしいなぁ……絵を描くのに夢中で気づいてないのかなぁ」
子犬は横L字型のドアノブに前足をかけ、ドアを開けようとした。だがそれを少女が後ろから止めた。彼女もドアノブを掴む。
「ねぇ、やっぱり行くの止めない?」
「どうして? 君、名前がなくて困ってるんだろ? それだったら
「言葉では言いにくいんだけど……なんだか嫌な予感がするというか……」
「あぁなるほど、君は随分人見知りな性格なんだね。大丈夫大丈夫、
「そ、そういうことじゃなくってーー!」
少女が語気を強めたため、その影響で手にも力が入り、結果的にドアが開いてしまった。バランスを崩した少女と子犬は前に倒れながら、家の中に入った。
「あいたたた……」
少女は身体を起こしながら、前方を確認した。そしてその光景に思わず身体が固まってしまった。
部屋の真ん中に、岩のように大きな何かがいる。それは限界まで熱された炭のように赤い、ボサボサに伸びた毛に覆われていた。後ろ姿しか見えず、まだその正体はよくわからないが、少なくとも人型をしている。
人型のそれは床に
不快な気配の元凶を見て、少女は改めて恐怖した。だがそれが酒を飲むことに集中している隙に、子犬と共にこの場から逃げようと考えた。
子犬が居るはずの場所に、少女は目を落とす。しかしそこに子犬の姿はなく、代わりに床に描かれた子犬の絵があるだけだった。それも虎の皮の敷物の如く、四肢を真横に広げた格好の絵だった。
ややあって、少女は自分が子犬を押し潰してしまったこと、子犬が床と一体化してしまったことに思い至った。何とか床から引き剥がせないかと、必死に絵に触ってみたが、いくらやっても何ともならなかった。
刹那、酒瓶が少女に向かって飛んできた。少女は悲鳴を上げ、咄嗟に身体を倒してそれを避けた。勢いがついていたのか、酒瓶は後ろの壁に激突すると、粉々に砕けながら、壁や床の上の絵になった。
酒瓶を避けられたことに、少女はホッとため息を漏らした。けれどもその安心は束の間のものに過ぎなかった。
人型のそれが首を名一杯に
オランウータン似のそれはヨロヨロと立ち上がって、少女の方にからだを向ける。ほどなく、胸が膨らむほど大きく息を吸って、
「コホォオオオオオオオーーー!!!」
戦闘機が空を切り裂いたような轟音が少女の耳を攻撃した。その鳴き声に、恐怖心がさらに高まった。耳を強く塞ぎつつ、急いで逃げだそうと、立ち上がって後ろを振り返る。
だがその壁には、酒瓶の破片が四散した絵があるだけで、少女と子犬が通ってきたはずの歪んだ形のドアはどこにもなかった。少女は壁を触ったり叩いたりしたが、当然何の意味もなさなかった。
その間に、オランウータン似のそれは少女目掛け突進してきた。大きな体格の割に細長い腕と肉々しく短い脚を使って走り、縄張りを荒らされたかの如く荒々しい表情を浮かべていた。
少女は叫びながら必死に逃げた。足はそこまで速くなかったが、素早く方向転換をし、小回りを利かせながらオランウータン似のそれの追跡を上手く避け続ける。
対するオランウータン似のそれは、勢いこそあるものの、
笑われたことに、オランウータン似のそれは怒り心頭に発した。浅黒い肌が体毛と同じくらいに赤くなり、鬼のように恐ろしい形相になり、再び激しい咆哮を上げた。そして壁にぶつかって無理矢理に止まると、今度は腹が膨らむほどの大きく息を吸った。
途端、血のように活力に満ち満ちた真っ赤な炎が吐き出された。それはクレヨンでがむしゃらに塗り潰したような形状をしており、絵に描いたようなこの世界の中でも際立って絵画的であった。
床に撒き散らされた酒の残りに引火したこともあり、部屋は瞬く間に火の海と姿を変えた。真っ先に燃えた床の一部は早くも燃え尽き、その場所にはただ無があるばかりだった。子犬の絵もまた火に蝕まれ、同じようになった。
少女は必死に逃げ延びることを考え、周囲を見渡す。すると豪奢な装飾が施された
少女は無我夢中でその洋箪笥に駆け寄ると、両開きの戸を開け放ち、中へ飛び込んだ。すると、なぜか足を着けられる場所がなく、勢いよく落下した。
声にならない叫び声を上げながら、少女の身体は引きずり込まれるように落下していく。周囲には、フリルがついた、白やピンクといった色合いの可愛らしいドレスが浮かんでいたが、それらにはまったく注意がいかない。
やがて底に光の点が見えた。それは次第に大きくなり、ほどなく少女は光に包まれた。そして光が晴れた先で、大量のぬいぐるみの山に包まれた。落下の衝撃をそれらで和らげた少女の身体は、ゴロンと頭から床に転がり落ちた。
「いたた……。でも何とか助かったのかなぁ」
少女は頭を摩りながら上半身を起こした。そしてその視線の先に、自分よりも幼い少女の姿を見つけた。
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