第四章 平面的世界 ~memorable moment~
第1話 少女と子犬
少女が一人、世界に立っていた。
歳は十代後半。愛らしさと美しさを兼ね備える、整った顔立ちだ。少女の髪は白く長い。高価な絹糸で出来ているかの如く、滑らかさと艶やかさがあった。額の上の方につけた黒いリボンが、それをさらに際立たせている。服装は白を基調としたワンピースで、襟元には大きな黒いリボン、袖口や裾には黒のレースがあしらわれていた。
少女はハッとして、周囲を
少女がいる世界は、絵に描いたような世界だった。ただしその絵を描いたのは、神でもなければ天才的な画家でもない、子どもだ。それもテクニックやら稚拙さやらを考えていない、年端もいかない子どもだ。
黄色い太陽は、円と八本の短い線で出来ていた。空は息苦しさを覚えるほどの平らな青色で、そこに浮かぶ雲はどれも白い毛糸を適当に絡めたような見た目をしている。生えている草木は、判で押したように同じ形をしておち、張りぼてと見間違えてもおかしくない。蝶々や鳥、犬、猫らしき動物の姿もあるが、もはや生物と形容することができないほどに自由な姿を形作っていた。
少女はその世界の有様を見て、少しずつ冷静さを取り戻していた。それでもまだ、頻度は落ちているものの、周囲を見る動作を止めることはなかった。
「私……どうしてこんな場所にいるんだろう。それに――」
少女の口から「それに」に続く言葉はなかなか出て来なかった。長くなればなるほどに、彼女の不安の色は濃くなっていく。仕舞いには頭を抱えて、その場に座り込んでしまった。
「何で? 私、いつも誰かと一緒にいたはずなのに……、さっきだってその人のことを探してたのに……名前も顔も、思い出せない……」
誰? あなたは誰? 私といつも一緒にいたあなたは誰?
誰? 誰? 誰? あなたは私の……、私の……――
私は誰??
「きゃっ!?」
不意に足に軟らかい感触を覚え、少女は思わず声を上げて尻もちをついた。見ると、そこには一匹の子猫がいた。毛は薄灰色でモコモコしており、まん丸な瞳で少女のことを見ている。ほどなく子猫は少女の足にまとわりついた。
その愛らしさに、少女は笑みを溢した。そして優しく子猫の背中を撫でる。「野良猫、かな? それにしては妙に人懐っこくて……ふふふ、可愛いなぁ」
「うん、よく言われるよ」
「あはは、やっぱりそうなん――へっ!?」
少女は固まった。ややあって、子猫が少女の顔を見上げる。
「もうちょっと撫でてくれてもいいんだよ?」
「あ、あなた、喋れるんだね……」
「そうだよ、そのへんの可愛いだけの犬と一緒にしないでよね」
(あ、猫じゃなくって犬だったんだ)
子犬はふぁあ~と欠伸をしながら、背中を伸ばした。「それで、君はこんなところで何をしているの? 天気がいいから散歩? それともひなたぼっこ?」
「それが……まったくわからないの……何か大切な用事があったような気もするんだけど……」
「名前は?」
「それもわからないの……」
あっ、もしかして! と子犬の声のトーンが上げる。「まだ
「めいめい、さん?」少女は首を傾げた。
「あぁ、やっぱりそうだったのか。君は
「えっ、えっ?」
「とにかくついておいでよ。そんなに遠くないからさ」
少女は子犬のすぐ後ろをついて歩いた。その間にも、必死に記憶を遡り、何でもいいから思い出そうと努めたが、すべてが徒労に終わった。例えるなら、日記のページの現在から後ろが白紙にされていたり、あるいは破り捨てられているというよりは、現在のページを先頭にした日記帳を新たに作られたという具合だ。すなわち「今までの自分」というものが、少女の中に、痕跡さえもまったくない状態だった。
周囲の景色を見渡して、何かに触発されないかとも思ったが、それもまるで意味を成さなかった。豊かな自然が広がっている光景だったが、それがあまりにも見慣れなさ過ぎた。むしろ見慣れないことに安心感を覚えており、その疑問を考察していることの方に時間を費やしていた。
胸騒ぎがした。家の鍵を閉め忘れたかもしれないとか、火の元を消し忘れているかもしれないとか、そういう感覚に近かった。手の平から汗が滲み、
「おーい、どうしたんだよー」
気づけば、十数m程度の間隔が出来ていた。止まっている子犬に、少女は慌てて駆け寄った。
「ほら、あの丘の上に家があるのが見えるだろ? あそこに
子犬の頭が向く数十m先には、丘と言うよりは山のような起伏があった。それが、底を逆さにしたコップのような型をしていたからだ。いや、山というよりも陸の孤島んと称した方が適切だった。今まで
その上には確かに家があった。四角形に三角形を乗せた、まさに絵に描いたような家である。それ単品で見れば可愛らしさもあったのかもしれないが、周囲の環境のせいでやや怪しげであった。
やはり子犬を先頭にして、少女は陸の孤島を登った。山肌には、そこに沿って石を置いて作られた階段があった。不安定な足場だったからに、一歩一歩慎重に進んだ。
高さは5m弱と、それほど高いわけではない。だが少女は、心臓が飛び出しそうな思いで進んでいた。自分は高所恐怖症だったのだろうかと問いかけるも、返って来る答えはない。だが答えはほどなく判明した。
少女と子犬は家に到着する。絶妙に歪んだ形のその奥から、少女は不穏な気配を感じ取った。
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