第8話 平穏と異変

 ライトの目の前に、見渡す限りの真珠色の平原が広がっている。


 平原は光沢と張りのある質感だった。それにより、激しいガラスの雨がまるでポップコーンのように軽々と弾き返っていた。しかし目を凝らすと、所々に破片が突き刺さっていていたりその形跡があることに気づいた。


 視線を遠へと移す。遠くへ行くに従い、平原はなだらかな下り坂になっていた。空との境界線は水平線のように緩やかな弧を描き、さらに向こう側へと消失する。

 ライトは今、聖母の庇護our Lady of asylumの上、傘の構造で言えば傘の先端部(通称石突いしづき)に該当する建物の中にいる。傘都滞在四日目の朝のことである。

  

 前日、ライトは一日中部屋に監禁されていた。場所は宿泊していたホテルのスイートルーム。豪勢な食事も用意された。


 今日のこの過酷な一日を乗り切るために英気を養え。それがレイからの御達示だった。要するに、どうせ逃げられないのだからゆっくりしておけ、ということだ。


 ライトの持ち物の一部はその日の夜に戻ってきた。すなわち、コンパクトミラー、形式上の身分証明のカード、そして本来の身分証明である鍵の三点だ。


 これらかあればここから逃げ出すことも不可能ではなかった。無論、ウェイミーが人質に取られている以上、そんな真似はできない。


 ウェイミーは、その気配から察するに無事なようだった。しかしライトが可笑しな行動を取れば、その瞬間容赦なく危害を加えられてしまうのは確実だ。


 もっとも、ウェイミーは人間ではないからに、惨惨たる拷問を受けようとも死ぬことはない。が、そんなことをされて冷静でいられない自分がいることを、ライトはよく理解していた。


 そして不安を抱えたまま、今日という日を迎えた。


『ライトさん、ライトさん、こちら184ヒヤシ。聞こえますでしょうか?』


 ライトの耳元からレイの分身の声が聞こえた。通信端末からの声だ。


「はい、良好に聞こえています」ライトは耳に手を当て、答える。


『今一度確認です。本日は東側の表面布の撤去作業を行います。ライトさんは防御壁の外に件の怪物を誘導し、こちらの作業中、注意を引きつけ続けてください。よろしいですね』


 ライトは背後を見上げた。5、6m上空、金属製の物体がそこにある。それは半円形よりも少し広角の形状をしており、直径は巨傘を覆い尽くすほどの規模だ。古くなった表面の傘布を剥がした後に露になる、スポンジのような保護材を雨に晒さないようにするためのものである。


「承知しました」ライトはボソッと答えた。


『ライト君、聞こえますか? こちらレイです』


 ライトは少しだけ背筋が伸びた。「はい、聞えています」


『あなたの活躍、期待してますよ』

 

 ライトはコンパクトミラーの中から剣を取り出し、コンパクトミラーを懐に戻す。そして一歩、傘布に足を踏み出した。


 親骨と呼ばれる、傘布を支える梁の上を慎重に進んでいく。傾斜は緩いので、それほど難しいことではなかったが、アルミ製の甲冑かっちゅうが動きを制限する。これに注連縄しめなわのように太い命綱をつけていたらさらに動き難いに違いないが、万が一足を滑らせた時は、そのまま傘布の上を滑り落ちていくしかない。

 

 五分ほど歩き進んだところで、ライトはようやく、件の怪物改めペルソナの姿をはっきりと視認した。


 それはまるで巨大なアメフラシだった。


 真紅にクリーム色の斑点が散らばる、ぶよぶよと柔らかそうな体躯。一見紅芋にも見えるが、一方の先端部には短い触角が四本伸びており、そちらが頭部なのだと予測がついた。さらに近づくと、鶏冠とさかのような小さなひだと、電源ケーブルのように伸びる長い尻尾があることもわかった。


 5m程度の距離まで近づくと、ペルソナもライトの存在に気付いた。軽トラックほどの大きさがあるペルソナは、頭部の触角を頻りに動かし、ライトのことを警戒しているような素振りを見せた。


 ライトは耳に手を当てた。「怪物のすぐ傍まで来ました。これより防御壁の外に出します」


『了解』


 ヒヤシの短い言葉を聞き、ライトは一つ大きく息を吐いた。剣を持つ手に力を込め、より慎重にペルソナにより近づく。


 距離を詰めても、ペルソナはまったく動こうとしなかった。近づきもしなければ退きもしない。ただじっと、こちらを見つめるばかりだ。訝しさが募りつつも、攻撃が届く範囲までは強く警戒心を持って接近した。


 そしてアッサリと、そのぶよぶよのからだに触れる距離まで近づいてしまった。


 この事態はさすがに予想外だった。見た目から察して動きは鈍そうだと思っていたが、攻撃性や凶暴性がここまでないとは思いもよらなかった。


 ここまで何もしてこないならば、ペルソナを処理するのは容易だ。が、事はそう単純には運ばない。


 今回のレイからの命令は、あくまでことである。ペルソナの志創能力ソートを利用し、世界を掌握しようとしているのだから、そのように命令するのは当然だ。そしてそれを破ったなら、ウェイミーが無事では済まないのも当然であろう。


 ペルソナの志創能力も、使用すればするほど威力や効力が増す。悠長に構えている間に、取り返しがつかないことにならなければいいがと、ライトは不安に駆られる。


「こ、こんにちは~……」


 ペルソナに挨拶をする。我ながら、何て滑稽なことをしているのだろうかとライトは思う。けれども思いつく限りの行動はしてみようと思った。


 挨拶をされたペルソナは、一時の間の後、頭部を少し傾けた。小動物が首を傾げたような具合に、だ。反応があったことに、ライトは少なからず嬉しさを覚えた。


「ほ……ほーら、こっちにおいで~」


 ライトは手拍子をしながら、一歩一歩後退した。するとペルソナは、一定の間隔を保ってゆっくりとライトの方に歩み寄ってきた。ライトは思わず感嘆した。


 そのまま歩き続けることおよそ三十分、時々歩く方向も変えつつ進み、ライトはペルソナを防御壁の外に出すことに成功した。ガラス雨がひたすらに甲冑にぶつかる違和感よりも、ペルソナを従順に移動させられたことによる感動の方が大きかった。


 興奮もそこそこに、ライトは報告する。「ライトです。怪物を防御壁の外に出しました」


『了解。ではその状態をあと六時間五十三分保ってください。一時間ごとに時報します』


「……了解です」


 通信を切り、ライトは深く溜息をついた。途端、一気に疲労感が込み上げてきた。いっそのこと、この場に腰を下ろして休憩してしまおうかとも考えた。そう思うくらい、ライトはこのペルソナに対し、警戒心を解いていた。


 その矢先だった。


 足元から振動を感じた。地震かと思い周囲を見渡すと、ライトがいる地点からほど近い傘の縁の向こうから、黒い煙が昇っていく光景を目の当たりにした。


(何が起こっているんだ?)


 ライトは事態を知るため、ヒヤシに話を聞こうと通信端末を使用しようとした。

 刹那、端末からノイズが聞えてきた。間もなく、かの人物の声も聞こえてきた。


『……あーあ、こちらハジメ! 旅人のライト君、聞えてるかな?』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る