第3話 危惧と女帝
路上パーキングには黒の軽自動車が駐車されていた。丸いフォルムが可愛らしい。
ライトは助手席に乗り込んだ。レザーシートに自分の体がほどよく沈む感覚が心地よい。
間もなく、車は静かに走り出した。同じ車線に他の車両がまったく走っていないからに、大変スムーズに進んでいく。
「それで繰り返しになりますけど」ライトは横を見る。「分身と言うのはどういう意味ですか?」
「言葉の通りですよ」ヨシヨは緩やかにハンドルを切る。「ライトさんは、仕事や作業が忙しい時、『人手が欲しいな』と思ったことはありませんか?」
「まぁ、ありますね」
「けれども周りに人はいない、あるいは能力的、内容的にそれを頼める人がいない場合も、多々ありますよね」
「だから分裂して自分を増やした、ということですか?」
「ご理解が早くて助かります」
ライトの表情が一瞬、そして少しだけ緊張した。それをヨシヨに見られた様子はなかった。
「今、我々分身はちょうど千体おります。私のように広報局に在席している者もいれば、企業に勤めている者、医師や教師をしている者、我らが主の直属のサポートをする者など、この
「その主、というかこのその指導者というのは、どのような方なんですか?」
そうですね、とヨシヨは少し考え、言葉を発す。「我々や傘都に暮らす人々のことを常に思っていらっしゃる、聖母のようなお方です」
前方の信号に赤が点った。ヨシヨは滑らかに車を停止させた。そのタイミングで、ライトはふと歩道に目をやった。そして小さく声を漏らす。
それはまるでブリキの木こりのようだった。スチールかアルミなどの薄い金属をツギハギして作った、不格好な
その子の存在は忙しい人々の足を止めさせ、好奇な眼差しを集めた。小さく嘲笑している者もいれば、眉を顰めている者もいる。その光景を見て、ライトは、彼らの視線が薄っぺらな甲冑を貫き、その子の心を串刺しにしているように感じた。
「ヨシヨさん、あの子はどうしてあんな恰好で歩いているんですか?」
「何のことですか?」
「えっ、ですからほら、そこの歩道を歩いている――」
体がグッと座席に押さえつけられた。ヨシヨが車を急発進させたためだ。発進させた瞬間、いやそれよりも若干遅く、信号は青に変わった。
「ライトさん、我々が今どこに向かっているのか、わかりますか?」
「……あの傘、ですか?」
「正解です」
ヨシヨの声は明るかったが、その表情は鉄のように冷たかった。
「これから傘都のシンボル、
景色は銀色の摩天楼からガラッと変わり、緑の多い集合団地になった。車線も片側二車線と狭くなり、車は少し速度を落とした。小さな子どもたちの元気な声が
さらに小一時間ほど走行した頃、今度は広い通り差し当った。運動競技場を思わせるトラックが、緩やかな弧を描いて左右に伸びている。そして進行方向の先には、何千年と生きた大樹のような荘厳さを讃える傘の柱が聳えていた。大分近くまで来たようだが、それでもまだ距離があるようだった。
通りの向こう側には、入傘前に目にしたガラスの壁と同じような壁が、円形に建てられていた。しかしそこには、あれよりもより大きな門とより多くの門番の姿を確認できた。
車は真っ直ぐ門へ向かい、十数m手前のところで停車する。ほどなく門番三人が運転席のところにやってきた。
ヨシヨは窓を開けて彼らに対応する。腕時計のような端末を門番に差し出すと、同じように門番も端末を出して、二つを接触させた。
「識別番号444様ですね。ご用件は?」
「
「承知致しました。内部の者達にも、そのようにアナウンスしておきます」
窓が閉まる最中、ライトはもう二人の門番と目が合った。二人もまた分身だった。にこやかな笑顔を向けられたので、ライトは会釈を返す。彼女らの胸元にはネームプレートがついており、そこには「398」「399」と書かれていた。
ほどなく二重に構えていた鉄格子の門が、それぞれ滑らかにスライドして開かれた。車は悠然とそこを通りぬけた。ほどなく、サイドミラー越しに門がしまっていく様子をライトは見た。
「ここからは傘都の中枢である
「他にも都市があるんですか?」
「はい、散在しています。けれども我々の傘都より大きい物はありません。ゆくゆくは周辺傘都とも合併していき、世界中を安全な傘で覆うことこそ、我らが指導者の最終目標です」
それはつまり、とライトは内心で呟く。世界を傘下に収めるということか。
赤茶や白のレンガで建造された格調高い印象の建物が見えてきた。その前には「○○局」「××委員会」などと刻まれた石看板が置かれていた。それらをあっという間に抜けると、いよいよ傘の麓に到着した。
視界すべてが、光沢のある銀色の円柱に満たされている。遠目に見ても大きかったが、目の前にするとその巨大さに圧倒される。左右を見ても上を見ても、ほぼ同じ光景が広がる。普段使っている傘でいえば中心の棒に該当するそれが、何万倍ものスケールで聳えている光景に、ライトは開いた口が塞がらなかった。
「どうぞこちらです」
ヨシヨに続いて、ライトは自動ドアを潜ろとした。しかしその直前「ライト」と、ポケットにいるウェイミーに小声で呼び止められた。
「どうしたの?」
「勘違いかもしれないけど、今、微かに――」
「ライトさーん、どうかしましたかー?!」数m先にいるヨシヨが声を張った。
「何でもないです! ――ゴメンねウェイミー、また後で聞くから」
ライトは急いでヨシヨに駆け寄った。その周囲には、スーツを着た分身一名と、作業服を着た男三名と分身二名がいた。
「ようこそお出でくださいました」スーツの分身がライトに向かって会釈した。「わたくし、OLA中棒塔の管理補佐を務めております、識別番号201番、ハタヒでございます。ここからはヨシヨに代わりまして、塔内の案内をさせて頂きます」
「ライトと申します。よろしくお願い致します」
ライト御一行はエレベーターに乗り込み、各フロア各エリアを順々に回った。
ここには傘都内のありとあらゆる管理設備が置かれていた。電気ガス水道などのライフラインをはじめ、通信、傘都の照明及び空調、公共交通機関、通信指令室、各所のセキュリティ――。それらすべてに十数名の人員がついているものの、概ねの管理はコンピューターが行っているとのことだった。ゆえその光景は、いずれも端末やスクリーンが設置されているだけの変わり映えしないものだった。
ライトはあくびを必死に噛み殺した。ふくらはぎの疲労を発散させようと、コッソリと小さな伸脚を繰り返した。エレベーターの壁に寄り掛かったならば、たった一、二階の移動でも夢の世界へ落ちてしまいそうになった。
刹那、全身に冷水をぶちまけられたような感覚に襲われた。何事かと思っていると、凛とした声が鼓膜を震わせた。
「少々お邪魔させて頂きますね」
振り返ると、そこにはまた分身がいた、とライトは一瞬だけ思った。一瞬で違いを察した。姿形はまったく同じだが、その存在感や表情がまったく違った。存在感はこの傘よりも圧倒的、表情は全知全能を携えているかのように自信に満ち満ちていた。
「レイ様!」とハタヒをはじめとする全員が驚き、そして姿勢を正した。「ど、どうしてこちらに?! スケジュールでは新しい
「珍しいお客様がいらっしゃったとの報せが入ったので、すぐに終わらせてここへ来ました」
レイと呼ばれた女は、秘書らしき分身一名と男女二名を従え、ゆっくりを近づいてきた。その華のある仕草とは裏腹に、一歩一歩踏み出す度、床から室内が凍りついていくようだった。
「はじめまして、OLA管理局局長兼傘都推進委員会会長を務めております、レイと申します。どうぞよろしくお願い致します」
車内でヨシヨに聞いた彼女の印象は「聖母のよう」だった。だがそれも大きく間違っている。息が出来なくなるようなこの凄味は、女帝と断じるに相応しい。
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