第2話 窃盗と誘拐

 子どもは人々の間をスルリスルリと走り抜けた。その素早い動きにライトは翻弄される。歯に力を入れ、必死に腕を振っても、まるでその背中には追いつけない。ライトの顔に憤りの色がにじむ。


 子どもが裏路地に入り込む。ライトも追ってそこに入ったが、既に子どもの姿はなく、見失ってしまった。


 ライトは一度立ち止まると、静かに瞼を閉じた。浅く短くなっていた呼吸を、深く長いものにゆっくりと切り替える。そうして周囲の音に、息遣いに、気配に、意識を高めていった。


 蜜のようにまとわりつく【あれ】の気配は、今は無視をする。内心、ウェイミーを置いてきてしまったことを後悔するライトだが、それでも徐々に徐々に集中していく。


 しばらくして、瞼が開いたと同時に、ライトの駆け出した。その表情は、先程まであった憤りは薄れ、新たに危機感が上塗りされていた。


 入り組んだ路地を、グネグネと、迷うことなく走り抜ける。一分ほどして、ライトは子どもに追いつくことが出来た。だが、その子を捕まえてウェイミーの靴を奪い取ったり、拳をお見舞いするようなことはしなかった。倒れているその子の上半身をそっと起こす。


「……お前、どうして……」


 その子の――少年の左の頬は赤くなっていた。口の中を切ったのか、口角から血も垂れている。それを一瞥して、ライトは前を見据える。


「あぁん? テメーそいつの仲間か?」


 相手は若い男三人。ライトよりもガタイが良く、ガラが断然悪かった。


「そうだけど、この子が何かした?」


「『何かした』だぁ?!」


「テメェも随分生意気な口利くじゃねぇか」


「お前、その見窄みすぼらしいガキに代わって、俺様にぶつかった慰謝料払いやがれ」


 ライトは肩をすくめる。「あえて聞くけど、嫌だって言ったら?」


「社会の厳しさを教えてやる」


「嫌だ」


 三人は同士にライトに襲いかかってきた。一人は素手、一人は鉄パイプ、一人はサバイバルナイフを手にしていた。


 それを見ても、ライトは大変冷静だった。どんな恐ろしい武器を持っていても、当たらなければ意味を成さないからだ。


 鋭く繰り出された拳は、その手首の部分を手の甲で払って軌道をずらした。その後、反対の手で男の顎を殴り上げる。


 大きく横振りされる鉄パイプは、一歩引いて避ける。鉄パイプが壁にぶつかったところを掴み、勢いよく突き出して男の鳩尾みぞおちに喰い込ませた。振り下ろされるサバイバルナイフは、奪った鉄パイプで弾き飛ばし、空中に飛び上がったそれを意図も簡単にキャッチすると、男の指先スレスレの場所に投げ飛ばした。


 この間、10秒と時間はかからなかった。


「その……助けてくれて、ありがとう。そ、それとこれ、返す……」


 男たちが尻尾を巻いて逃げおおせたあと、少年はライトにウェイミーの靴を差し出した。


「別に大したことじゃないよ。そんなことより」ライトはグッと少年に顔を近づけた。狂気に満ちた笑顔が貼り付いている。「何で靴に、教えてくれる?」


 少年はたじろいだが、声を張る。「し、仕方ないだろ! こっちは毎日、何とか生きてんだよ!」


 ライトの顔から、貼り付いていたモノがポロっと落ちた。


「俺たちはお前ら金持ちどもと違って、生きるために必死なんだよ! あと言わせてもらうけどな! その靴、まったく甘くないじゃんか! いくら俺でも食えたもんじゃねーよ!」


「ちょ、ちょっと待って! この靴本気で食べようとしてたの?!」


「生きるためには、そういうものも仕方なく食べる時もあんだよ、俺たちは。体に良くないものが入ってるのはわかってるけど、それでも甘いから、まだ食べられるんだ」


 ライトは理解した。この世界はお菓子で出来ているのではなく、甘いもの――おそらく砂糖か蜂蜜などで出来ているのだと。そして当初の煌びやか印象とは裏腹に、複雑な問題を抱えていることも。


「君たちのことをわかってなかったのは謝るよ。ゴメンなさい」


「ま、まぁ、助けてくれたし、大目に見てやるよ」


「ただし、それは君の手でちゃんと返してね」


「えー!」


 ライトと少年アランは裏路地から通りに戻った。


 二人の歩いていた通りに、目抜き通りらしき大通りが交わる。何気なくその先を見ると、ライトの視界にそれが飛び込んできた。


 巨大なケーキの塔が悠然とそびえていた。それは五種類のケーキ――下から、ビクトリアケーキ、ベイクドチーズケーキ、ザッハトルテ、ミルフィーユ、そしてイチゴのショートケーキが積み重なって出来ている。周りを囲む防壁はバームクーヘンだった。


 神殿のような高貴さと、要塞のような威圧をライトは覚えた。同時に、近々あの場所に行かなければならないとも思った。


 ライトはアランに視線を落とす。とても緊張しているらしく、グッと歯を食いしばっていた。


「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。ウェイミーは凄く優しいから」


「別に怖がってなんかねぇよ! ただ、あんな綺麗な人に悪いことしたなぁって、ちょっと思っただけだ!」


 ほほ~、とライトは感嘆した。


「い、言っておくけどな! 俺は人の女に手ぇ出すような男じゃないからな!」


「いや、別にそれは気にしてないんだけどさ」


「何だよその言い方? あの人お兄さんの彼女じゃないのかよ」


「彼女ではないかな。まぁ大切に思っていることには違いな――」


 刹那、ライトは血相を変え、突然走り出した。


「えっ!? ちょっと兄ちゃん、いきなりどうしたんだよ!!」


 アランの声などまるで耳を貸さず、ライトは全力疾走する。目抜き通りに差し掛かると、ケーキの塔を背にして更に走った。


 しばらくして向こうから大きな荷馬車が列を成して走ってきた。馬にも荷台にも、荘厳な印象を与えるエンブレムが掲げられていた。それは街の至る所にも存在し、それが意味するところは大きいことは簡単に窺い知れる。そのことを、ライトはこの世界に来てすぐに認識していたが、その知識は今の彼を抑制できるほどの力は持たなかった。


 ライトは鬼気迫る形相で、一台の荷馬車の前に立ちはだかった。突然のことに馬は驚き、前脚を上げて大きくいななく。荷馬車隊も混乱した様子だった。


 ライトはその隙に荷馬車の後ろに回った。そしてビスケットで出来たほろに囲われた荷台に登ろうとする。だが直後、脇腹に鈍痛が走り、地面に落下した。


「このコソ泥が!!」


 鼈甲べっこうに輝く甲冑に身を包んだ兵士が、棒状のチュロスで激しくライトを叩いた。ライトが止めた荷馬車の後ろを、馬に乗って走っていた兵士だった。他の兵士たちも続々と集まり、ライトをひたすらに痛めつけた。


 数分後、戦意を消失したと見られたライトは、兵士に道端へと蹴り飛ばされた。そして荷馬車はあっという間に走り去っていった。


「何やってんだよ、兄ちゃん!」


 アランが駆け寄ってきて、ボロボロのライトを起き上がらせた。


「お城に物資を運んでる荷馬車に突っ込むなんて何考えてんだよ! 危うく兵士に殺されるところだったぞ!」


 呼吸を整え、痛みに耐えながら、ライトは口を開く。「ウェイミーが……」


「うぇいみー? 兄ちゃんと一緒にいたあの女の人か?」


「ウェイミーが、さらわれた……!」

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