67 1羽村山口軽便鉄道廃線跡と遠江坂 

 羽村山口軽便鉄道は、 1921年(大正12年)に建設中の村山貯水池(1922年(大正13年)完成の村山上貯水池、1927年(昭和2年)完成の村山下貯水池からなる)に多摩川の水を送水する導水管(羽村村山線(別名『東京水道』とも呼ぶ))の建設のために、導水管沿いに敷設されたのが最初である。このときの名称を『羽村山口導水管敷設工事軌道』といった。


 当初導水管工事が終わると軌道も撤去されたが、急激な東京の人口増加に対応するため、村山貯水池の北側に山口貯水池が計画され、1928年(昭和3年)に工事が始まった。この工事に伴って軽便鉄道が復活したのである。

 村山貯水池、山口貯水池建設に使用された砂利は、この軽便鉄道のほか、青梅線、中央線、西武国分寺線を経て東村山に至り、そこから工事用に敷設された軽便鉄道(東京市軽便鉄道)で工事現場まで運ばれた。また山口貯水池へは、現在の西武狭山線の途中から分岐させて運ぶルートもあったが、このルートは最後築堤の上にナベトロを運び上げるためにインクラインが敷設されていた。


 軽便鉄道は、羽村から山口まで総延長12.6kmを、自重4.5tのディーゼル機関車(軽自動車程度の大きさ)が『ナベトロ(小型のホッパー車で横の断面がナベ型であったことから、そう呼ばれていた)』を引いて終夜運転されていた。使用されていた機関車は28輌、ナベトロは450輌にものぼった。もちろん蒸気機関車もあったようだ。残っている写真から判断すると、Bタンク(動輪が二軸の小型蒸気機関車)が使われていたようだ。

 後にも先にも東京最大規模の軽便鉄道であった。さらに現在東京都内(島嶼部は除く)で唯一鉄道の走っていない武蔵村山市を走った鉄道でもある。

 この施設を作るために、玉川上水の羽村取水堰近くにある江戸時代からあった『遠江坂』が付け替えられた。


【遠江坂】

 遠江坂は1921年(大正12年)の導水管工事の時に壊されて、その原形を止めていない。戦国時代この地方を支配した豪族大石遠江守がこの坂の近くに館を構えたことから、『遠江坂』と呼ばれていたようである。

 玉川上水の羽村取水堰の少し下流の河岸段丘の上から多摩川に向けて下る坂で、遠江坂の頂上から下側を見ると、緩やかに右にカーブして下っていく。昔は、このまままっすぐ玉川上水めがけて降りて行ったようだ。

 現在玉川上水から分水する東京水道の取水口の上にある公園には羽村市教育委員会の設置した標識があり、その標識から往時の坂を偲ぶばかりである。


 多摩川右岸の羽村市郷土博物館の少し上流で採取された砂利はナベトロに積まれて羽村の取水堰の少し下流で木製の櫓を組んだ橋を渡り、現在の東京水道取水口あたりで、インクラインで河岸段丘の上まで引き上げられた。公園の西の崖際を注意深く見ていくと、コンクリートの土台が地面から顔をだし、途中で切断された鉄筋が伸びていた。位置関係から考えると、インクラインの土台跡と推測される。

 公園の崖下の奥多摩街道沿いには大きな空き地があり、一カ所に大きな玉石が集められているが、これらもインクラインの痕跡と思われる。

 斜面にはコンクリートと玉石で作られた『ムロ』のようなものが穿たれ、現在はコンパネ(ベニヤ板)で入口が塞がれている。中を覗くと二畳ほどの空間になっているが、これも当時の施設の一部なのだろうか?

 河岸段丘の上は、現在公園になっていて、広場があり、当初はここでナベトロは機関車に連結されたのかと思ったが、資料を調べると青梅線を超えて横田基地の手前にある加美平団地付近までインクラインで引っ張られていたようだ。そこで機関車に連結すると、村山貯水池、山口貯水池へと向かった。


 廃線跡は、この公園から横田基地に向かってほぼ直線に伸びていて、現在はアスファルトの道になっていて歩くことができる。両側は古くからの住宅街で、所々に立派な土蔵がみられ、「ここが東京か!?」と疑うばかりののどかな風景が続く。しばらく廃線跡を進むと、青梅線に突き当たり、踏切は無い。青梅線との交差は、軽便鉄道がクロスオーバーしていた。

 近くの踏切を渡り、再び廃線跡に戻ると、青梅線から東は、道というよりは未舗装の遊歩道になっている。さらに進んで福生市加美平団地付近になると、痕跡ははっきりしなくなる。

 次に再び痕跡を現すのは、横田基地を超えて、横田基地の北東に隣接する石川島播磨重工の工場を越えたところからである。

 ここら先は、サイクリングロードとして綺麗に整備されている。

さてさて、このお話しはまだまだ続く・・・・



 先日終点近くの村山貯水池の南側をヤブコギして、その痕跡を探し回ったが、山中であちこちに東京都水道局の石製の境界標を見つけた。残念ながら途中で水道局の高いフェンスに阻まれて中断せざるを得なかった。

 終戦前後から各年代の古い航空写真を、様々な縮尺に変えながら村山貯水池と山口貯水池の間を見ていると、一本の筋が見えてきた。今までの経験から、廃線跡は、地図か航空写真になんらかの痕跡を残しているものである。そうなると、現地を確かめずにはいられない。山刀を持ってヤブコギである!

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