66 近代日本の技術輸出第一号『海堡』

 ペリー提督率いるアメリカ艦隊が日本にやってきて江戸幕府に開国を求めると、幕府は外国の侵略を恐れて、品川沖に11基の台場を計画し、わずか8か月間で8つの台場を完成させたという。初代ゴジラが東京湾から上陸して第一歩を記したのが品川の八ツ山(⇒『60 八ツ山の坂、八ツ山橋とゴジラ』ご参照ください)だが、その八ツ山や御殿山を切り崩して台場の埋め立てに使われた。

 二度目に来航したペリーはこれらの台場を見て、横浜まで後退して上陸したという逸話が残っている。

 明治になると、帝都東京を外敵から守るべく東京湾の入口で外敵を阻止するために、東京湾要塞が築造された。城ケ島から夏島までの24の沿岸砲台の他、第一海堡から第三海堡まで3つの海堡が建設されている。

 海堡は、東京湾の最峡部の富津岬と浦賀水道を結ぶ位置に造成された人工島で、明治中期から建設が始まり、大正時代に完成している。

 第一海堡と第二海堡は、水深8~10mの富津岬沖に建設されたが、第三海堡は浦賀水道の水深39mもある、波浪と潮流の激しい中央部に建設された。ちなみに江戸幕府が築いた品川沖の台場は水深2~3mのところに築かれている。

 第三海堡は1892年(明治25年)に着工し、1921年(大正10年)に完成した。実に完成まで29年を要した難工事だった。波浪や潮流の激しさに加えて、台風により何度も被害が出ている。

 国会図書館で当時の書類などを探すと、面白い文書が出てきた。1906年(明治39年)7月3日、築城本部 榊原昇造部長(陸軍少将)が陸軍大臣寺内正毅宛てに出した『第三海堡基礎に関する特別報告』なるもので、その中には『・・・幾多ノ暴風怒涛ニ遭遇シ損害ヲ蒙リタルコト数次ナリシカ故に此風浪迫害防止ノタメ三十六年四月当部外面脚ニ防浪「ベトン」塊ヲ排列セシ処其施設好結果ヲ発シ再来工事着々進捗シ・・・』と記されている。

 『防浪ベトン塊』というのは、今風に言えばコンクリート製消波ブロックということだろう。

 第三海堡付近の1903年(明治36年)の地形図を見ると、先端のアーチ状の築堤部分が描かれており、着工11年にしてようやく頭の部分が形作られてきている様子がわかる。

 完成した第三海堡には、大砲の他に魚雷も装備されていたようだ。 国会図書館に所蔵されていた当時の図面の中に『第三海堡水雷発射装置』というものがあって、魚雷の発射装置の三面図が描かれている。


 1923年(大正12年)に発生した関東大震災により、第二海堡と第三海保は被害が大きく、砲台としての役目を終えている。特に第三海堡の被害は大きく、海底地盤が約4.8mも沈下して、海面上部分の1/3が水没してしまった。

 震災後の1926年(大正15年)の第三海堡の地形図を見ると、半ば水没した姿で描かれている。

 その後昭和に入ると、ワシントン軍縮条約により余剰となった艦艇の艦砲を沿岸砲台に移設した結果、沿岸砲台を第一射線、その湾奥に位置する第一海堡を第二射線として、東京湾に侵入してくる外敵を二段構え迎え撃つ体制となった。


 関東大震災で被災して半ば水没した第三海堡は、航路上の暗礁と化し海上交通の妨げになっていたことから、2000年~2007年にかけて撤去された。

 この時海中から引き揚げられた一部の築造物が横須賀市夏島に探照灯・砲台砲側庫・観測所兼砲側庫3棟が、うみかぜ公園に大型兵舎1棟が保存されている。


 第三海堡の工事の成功を促したものは、日本古来の築城技術と、明治になって導入された潜水技術や鉄筋コンクリート製のケーソンの採用など、和洋技術の合作の成果ともいえる。

 世界的にみて、このような場所に人工島を建設するような例は他にない。関東大震災で地盤沈下により水没してしまったとはいえ、当時世界最先端をいく土木技術として世界中から高い評価を得た。

 その結果、アメリカの首都ワシントンの前面に位置するチェサピーク湾に海堡を建設する際、アメリカに技術情報が供与されている。

 アメリカ公文書館には、当時の日本が供与した英訳された図面が保管されている。近代日本の技術輸出第一号ともいえる快挙だ。


 第三海堡が撤去される際、陸上に引き上げられて保存された建物のうち次の3棟を見学させていただいた。

◆探照灯 (陸揚重量565t)

 海堡頭部にあった探照灯施設で、横に細長く左右対称である。中央に上部がアーチ型の開口部があり、そこから中に入ると、入った先の反対側まで探照灯を移動させるためのレールが残っている。

 左右に通路があり、突き当りで90度曲がると屋上へとあがる階段がある。通路が直角に曲がる部分の各方向からのアーチの接合部分が非常にきれいに施工されているが、これはかなり高度な技術だといえる。


◆砲台砲側庫 (陸揚重量540t)

 所謂『弾薬庫』で後部遠方から俯瞰すると、まるまると太った豚がお座りをしているようにも見えるかまぼこ型である。正面に回ると中心から左右二室に分かれ、それぞれ入口が付いている。左右のやや後ろ寄りには砲台に弾丸を供給する揚弾用の小さなアーチ状の小窓が開いていて、コンクリート製の樋のようなものが耳のように突き出している。

 全体がコンクリート一対構造となっていて、鉄筋は確認されていない。

コンクリートのみでこれだけの強度のものを作る技術があったのは驚愕に値する。


◆観測所兼砲側庫 (陸揚重量907t)

 引き上げられた観測所は砲台後部に位置し、砲側庫と一体構造となっている。正面から見ると、左側が円筒状になっていて、青天井だ。右側は砲台砲側庫と全く同じ造りをしている。

 砲側庫に入ると、高さ1m~1.5mくらいのところから上下に一線を引いたようにツートンカラーになっていて、下半分は赤みがかった茶色、上半分は所謂コンクリートのグレーに綺麗に塗り分けたようになっているが、赤身ががかった茶色の部分は、数十年海中に没していたために染まったものだろう。

 何れの建物にも側溝が掘られ、雨水が効率よく貯水タンクに導かれて貯蔵されていたようだ。


 国立公文書館にある第三海堡の資料にあたると、いくつか面白い事実が浮かび上がってくる。そのうちの一つをご紹介しよう。

 『第三海堡ノ土礎堆石上ヘ外国汽船乗揚ノ義ニ付申進』には、座礁事故を起こした顛末が記されていて、船長の調書も添付されている。

 1893年(明治26年)4月16日に香港から横浜に向かっていたドイツの郵船ニオベ号が、建設途中の第三海堡に座礁したのである。

 この報告書に添付されている船長イー・ジー・パッフの調書には、『余ハ海峡ノ中央ニアル此新暗礁ハ之ヲ表示スル燈光不見分ニシテ数多ノ船燈中ヨリ之ヲ区分スルヲ得ザリシ』とある。


 第三海堡が取り壊されてしまったのは残念だが、陸上で保管されている建物群は、近代日本を語るうえで貴重な資料となっている。

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