68 2羽村山口系便鉄道廃線跡と横田基地

 村山貯水池、山口貯水池の建設工事に使われた砂利は、多摩川の右岸(西側)で採取させれていたものと思われるが、調べられる範囲では、砂利採掘現場の資料は出てこなかった。羽村取水堰の下流側に木で櫓を組んだ橋が写っている写真があることから、多摩川を渡り、右岸で採取されたことは間違えない。羽村の取水堰から右岸を上流へ進むと、羽村市郷土博物館の先で、山が大きく川へせり出してきており、その先が広い河原になっている。この辺りで採取されたのではなかったかと推測する。


 採取された砂利はナベトロに載せられて右岸沿いに下ると、羽村取水堰のすぐ下流に架けられた橋を渡って、玉川上水に突き当たると右にカーブし、現在の東京水道の取水口付近からインクラインで玉川上水を超えて一気に河岸段丘の上まで引き上げられたようである。玉川上水の右岸から河岸段丘の上まで約20度の角度で敷設されたインクラインの写真が残っている。やはり木組みの櫓で路面を支えているが、その写真の奥の片隅に石造りの小さな小屋が写っている。その写真が撮られたであろう同じ位置に立つと、なんとその小屋や周りの石垣、石造りの階段などそのまま残っているのには驚いた。

 砂利を積んだナベトロの残された写真を見ると、横に『東京市 水道局 擴張課 N.○○(○の中には連番の数字が入る)と書かれている。


 インクラインで福生加美平住宅(以下加美平団地)付近まで引っ張られたナベトロは、そのまま機関車に付替えられた。終戦直後の航空写真を見ると、西から東へ一直線に廃線跡が続いている様子がわかるが、加美平団地付近に廃線跡の北側にまるで引き込み線があったかのような広い敷地が見えるのが、積み替え場だったのだろうか。

 ナベトロを引いたディーゼル機関車の車重は数トン程度で、大きさは軽自動車程度であったという。

 数年前、加藤製作所の復元ディーゼル機関車が武蔵村山市で走行したが、それが羽村山口軽便鉄道を走っていたかどうかは判らない。

 線路下に埋設された導水管の工事の様子を写した写真が残っている。現在のようにコンクリート製の円筒を工場で生産して現地に運び埋設するのではなく、現場で型を組んでコンクリートを打ち、直径3m近い導水管を敷設していったようである。

 加美平団地を出発した機関車は、八高線をアンダーパスしてさらに東へと向かう。地図上で終えるのは、国道16号と並行して走る西多摩産業道路までで、その先は横田基地に阻まれて判らない。


 ここ横田基地の正式名称は、『アメリカ空軍横田飛行場』といい、本州最大のアメリカ空軍基地で、極東地域全体の兵站基地(輸送中継ハブ基地)としての機能を有している。

 横田飛行場は、1940年(昭和15年)旧帝国陸軍立川飛行場の附属飛行場として建設され、『多摩飛行場』と呼ばれていた。戦時中は、陸軍の航空機試験場として利用された。

 1945年(昭和20年)9月4日にアメリカ軍に接収されると、どんどん拡張が始まり、1960年には現在の姿となった。

 なぜ、戦前は『多摩飛行場』と呼んでいたのが、米軍が接収すると同時に『横田飛行場』に変わったのかご存じだろうか。

 その理由には、面白い逸話が残っている。

 多摩飛行場を目指して新宿方面から青梅街道を進駐してきたアメリカ軍が、北多摩軍村山村字横田付近(現在の武蔵村山市役所のある武蔵村山市中央付近)で、多摩飛行場の名前を尋ねたときに、答えた地元の人は英語を解することが出来ず、現在地の地名を尋ねられているのと勘違いして、「ここは横田だ」と答えたのが、横田基地の名前の始まりというのだ。

 さてさて前回(67 1羽村山口軽便鉄道廃線跡と遠江坂)と話しは被ってしまったが、次回は横田基地東側から武蔵村山市の『横田トンネル』付近までをお伝えしたいと思う。



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