65 青山通りの名無しの権兵衛坂と牛鳴坂そして丹後坂

 青山通りは、赤坂見附から薬研坂の入口まで600mほどの緩やかな登り坂が続く。残念なことにこの坂には名前がない。青山通りの歴史を振り返ると、1904年(明治37年)に三宅坂から青山四丁目まで市電が開通していることから、そのころからこの坂はあったはずだ。坂の途中には豊川稲荷や東宮御所などがあり、行き交う交通量も多いのに、坂に名前が付いていないのはなんとも不思議ではないか。

 青山通りは、明治をさらにさかのぼると、江戸時代は『大山街道』、あるいは『厚木街道』とも呼ばれ、大山詣でに向かう人々が通う路で、五街道に次ぐ重要な交通路となっていた。赤坂見附から坂を上り始めると、程なくして左斜め前方に分岐する細い路地の急坂が現れる。実はこれが昔の道筋で、『牛鳴坂(別名さいかち坂)』と呼ばれている坂である。牛鳴坂は、薬研坂入口で再び青山通りへと合流する。江戸時代は路面が悪く、荷車を引く牛が苦しんだため名付けられたという。坂の途中の左手には山脇学園があり、通学時間帯ともなると、多くの女子学生が行き交い、狭い急坂には似つかわしくなく賑わっている。

 山脇学園は、1903年(明治36年)、「女性の本質を磨き、時代に適応する教養高き女性を育成する」という建学の精神の基、牛込区白銀町に設立され、1935年(昭和10年)にここ赤坂の地に移転してきた。(山脇学園短期大学ホームページより転載)

 創立者である山脇玄は、明治時代ドイツ法学の第一人者で、貴族院議員でもあった。貴族院の本会議で、日本初の婦人参政権付与の提案演説を行なうなど、常に先頭に立って婦人の地位向上に努めたことでも功績を残している。


 青山通りの坂に名前を付けるとするならば、『新牛鳴坂』とでもするのだろうか。だが、人々はこの坂には名前を付けなかった。

 その牛鳴坂を進み、坂の急な部分を上りきって左に曲がり、マンションの間を進むと、道の先には『赤坂Bizタワー』が見えてくる。さらに進むと、道の突き当たりにフラワーポッドが並んでいて、そこから先が階段だ。階段を降りると、その先は『コロンビア通り』突き当たる。『通り』とは名ばかりの狭い路地で、周辺は、下町のどこにでもある路地裏の住宅街のような雰囲気をもつ。

 このコロンビア通りへと続く階段こそが、丹後坂である。階段の蹴上(段の高さ)は十数センチ程度と低く、踏み面(階段の上面)は幅のあるゆったりとした階段だ。階段の中央部には植栽が配され、その左右に手すりが付いている。坂の両側は低層で小ぶりのマンションが建っており、ここが都心であるということを忘れさせてくれるような落ち着いたたたずまいだ。 

 丹後坂の由来は、港区が坂の上に設置した看板によると、

『元禄(一六八八~)初年に開かれたと推定される坂。その当時、東北側に米倉丹後守(西尾丹後守ともいう)の邸があった。』

とある。 江戸時代の切り絵図を見ると、『丹後坂』と記されている。切絵図は現代の道筋にほぼ一致し、コロムビア通りは『黒鍬谷』と名前が記されている。


 坂下のコロムビア通りは、道幅約4mほどの細い道である。以前ここ赤坂4丁目に『日本コロムビア』の本社があったことから付けられた名前であるが、2001年(平成10年)、ヒット曲に恵まれず経営が悪化して、会社再建のためここ赤坂にあった本社を売却して六本木に移転していった。


 コロムビア通りは、以前よく通った道で、午後にここを通ると、いつも決まった時間、丹後坂の入り口のところにトラックが止まっていて、お店を広げていた。移動販売の八百屋さんである。

 昔東京のあちこちで見られたこんな風景が、ここ赤坂に残っていることにびっくりである。ここら辺に住んでいる人は近くにスーパーなどなく、今も移動販売は、住民に愛されているのだろう。

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