64 牛込橋と幽霊坂 東京大神宮神前結婚式事始め

 ある日御茶ノ水を歩いていると『幽霊坂』という標識を見つけたのが、坂を巡り歩くようになったきっかけだ。残念ながら今は小さな標識に架け替えられてしまったが、当時は高さ1.5m、幅は30~40cmはある大きな看板だった。『幽霊坂』と墨色鮮やかに書かれた文字からは、霊感の無い私にも何かを感じさせる、一種異様な凄みをもった標識だった。

 『坂』について調べてみると、江戸時代から続く『幽霊坂』は都内に9か所、明治以降に『幽霊坂』と名付けられた坂も入れると12か所はあるという。

 さらに驚くことに、23区内で『・・・坂』と名前の付いた坂を調べると、優に500か所は超える。それに対して住居表示上の住所として『坂』の文字の貼ったものは10か所しかない。検索範囲を23区内から東京都内に広げても、わずかに16か所しかない。通り名で地名が残っているというのは、如何にその『坂』が地元に根差していて、そこを通行する人々に愛されているかという証拠ではないだろうか。


 そんな中から、今回は飯田橋にある『幽霊坂』を取り上げよう。

その『幽霊坂』は、JR飯田橋駅西口を出て九段方向に数分歩いた、富士見2丁目にある。江戸時代の切絵図と現代の地図を見比べると、江戸時代の道筋が、ほぼ現代に生きている。

 「富士見」という名前は、当たり前のことであるが富士山が見えたからであ。1872年(明治5年)の記録に、九段坂を上りきった辺りからの富士山の眺めがとても綺麗だったと記されているものを目にしたことがある。

地形を見てみると、JR飯田橋駅西口前(標高14m)から南西方向に向かい富士見、靖国神社(本殿付近標高25m)、麹町(上智大学入り口付近標高30m)と緩やかな上りとなっている。

 靖国神社周辺から牛込橋(JR飯田橋駅西口)までを「富士見町」と名づけられ、1966年(昭和41年)の住居表示実施で、今の「富士見」となった。

江戸時代、この辺りは武家屋敷が立ち並ぶ地域であった。江戸時代の武家地には正式な地名はなく、「土手四番町」、「裏四番町通」などの呼称がついていただけだ。その名残で、JR四ッ谷駅東側には、「二番町」「四番町」などの地名が現代にも生き残っている。


 さて、JR飯田橋駅西口を出ると、九段の方に向かう道が早稲田通りで、神楽坂下から外堀とJR中央・総武線を超えてくる橋が『牛込橋』である。

 駅を出て左の九段方向に向かうと、早稲田通りの両側に大きく整然とした石垣が現れる。高さは3m位はあるだろう、裾はわずかに広がっているものの、ほとんど垂直に積まれている。石垣の石組はみごとなまでに石の特徴を生かしつつ削って組み合わされている。これは江戸城から牛込への出入口に当たる牛込御門(牛込見附)の一部をなすもので、1636年(寛永13年)に外堀が掘られたときに作られた。


 早稲田通りはさほど広くなく、九段方面から神楽坂下にかけて一方通行となっている。早稲田通りの両側は4~6階建ての店舗・事務所やマンションが建ち並ぶ。昔は東京警察病院だった跡地には、『飯田橋桜テラス』という大規模な商業施設が建っている。サクラテラスを過ぎて角川書店第三本社ビルの手前の角から西の角川本社ビル、角川第二本社ビルに向かって緩やかに登る坂が『幽霊坂』である。

 この坂の別名は『勇励坂』であるが、実は『幽霊坂』ではなんともイメージが悪く地元住民らが『勇励坂』と当て字で命名したものだが、残念ながらほとんど使われていない。ここには千代田区や東京都が設置した坂の銘板はみあたらず、名前の由来などを記した標識も立っていない。

 江戸時代、この坂の両側は中小の武家屋敷が並ぶ通りだったので、人の行き来も少なく、両側の屋敷からは鬱蒼とした木々が生い茂っていて昼なお暗く、『幽霊坂』と付けられたのだろう。


 一歩裏通りに入ると、瀟洒な住宅や低層マンションが並ぶ、落ち着いた雰囲気の住宅街である。付近を散策してみると、こんもりと生い茂った緑を見つけた。「東京のお伊勢様」として親しまれる東京大神宮である。

 東京大神宮の歴史は意外と新しく、1872年(明治5年)までさかのぼることが出来る。当時日比谷に開設された、神宮司庁東京出張所(伊勢神宮の事務機関)が東京大神宮のはじまりで、その他の拝殿を併合して1880年(明治13年)には有楽町の大隈重信邸跡に移る。

その後1923年(大正12年)の関東大震災で拝殿を焼失した。その後有楽町での木造建築が出来なくなって有楽町での再建をあきらめ、1928年(昭和3年)に現在地に再建・遷座して現代に至るのである。

 東京大神宮は、「東京のお伊勢様」として親しまれている神社だ。江戸時代の庶民は、残念ながらお伊勢様まで行かなければならなかったが、明治の世になると、東京大神宮が出来て、お伊勢参りにいかずとも東京大神宮に参拝すれば、同じ御利益が得られると、人気が高かったという。

 明治13年から有楽町にあった東京大神宮は、明治時代の地図と現代の地図を重ねてみると、現在は三井住友銀行本店のある位置に本殿があり、その南側の東京宝塚劇場のある辺りが参道だった。


 東京大神宮の祭神は、「天照大神(伊勢神宮の祭神、日本甚の総氏神)と、「豊受大神(伊勢神宮外宮の祭神、農業け諸産業・衣食住の守護神)」が祀られている。

 また万物創造神(カミムスビノカミ)が合祀されているが、このムスビノカミの霊験あらたかであるとの評判が高まり、全国屈指の『縁結びの神様』として知られるようになった。

 結婚式を『神前結婚式』で挙げられる方は少なくないだろう。その神前結婚式がいつごろから行われるようになったのだろうか。

 時代劇の中に出てくる結婚式の様子は、自宅の居間に関係者が集まって、仲人が『♪高砂や この浦舟に帆を上げて~・・・』と謳うシーンが多く、神前結婚式は見たことがない。

 明治も後半になると、東京大神宮は神道普及のために神前結婚式を創案し、その普及活動に努めるようになる。

 明治34年3月3日に神前結婚式普及のため、多くの観客を集めて模擬神前結婚式を執り行った記録が残っている。そう、神前結婚式が多くの日本人の間で執り行われるようになったのは、わずか100年足らず前の事である。

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