51 国宝『千体地蔵堂』と念仏橋
全国30都府県に214件の国宝建造物があるが、奈良県の62件、京都府の48件を筆頭に西高東低の分布となっている。
ちなみに、関東地方で数えると8件しか無く、そのうちの6件が栃木県日光市にある東照宮に集中している。
残りの2件は、東京都東村山市にある正福寺の千体地蔵堂と、神奈川県鎌倉市にある円覚寺舎利殿だ。
東京都内には国宝に指定された建物が一つしかないというのも、ちょっとした驚きではないだろうか。
東村山駅西口を出ると、北西の方向に約1km歩くと、畑の混在する住宅街に千体地蔵堂のある金剛山正福寺にたどり着く。道路に面して2m以上はあろうかと思われる四角い石柱が立っていて、『國寶金剛山正福寺千体地蔵堂道路』と記されている。数段の石段を上がると、数メートル下がって建つ山門は、さほど大きくないものの、良い雰囲気を漂わせている。
金剛山正福寺は臨済宗の寺院で、鎌倉にある建長寺の末寺である。その仏殿である地蔵堂は、1933年(昭和8年)の屋根を茅葺からこけら葺に改修した際発見された墨書銘により、1407年(応永14年)の建立と判明した。
典型的な禅宗様建築であり、1928年(昭和3年)に国宝建造物として指定されている。
正福寺の創建は、ときの執権北条時宗か、またはその父の時頼によって開基され、勧請開山は中国南宋の石渓心月仏海であると言い伝えられているが、定かではない。
入口に立つ小さな山門は、1973年(昭和48年)に行なわれた解体修理の際発見された親柱枘(おやばしらほぞ)の墨書銘から、1701年(元禄14年)の建立であることが判明した。
建築様式は、四脚門で切妻茅葺の禅宗様で、各部位から朱の痕跡も見つかっていることから、元は朱に塗られていたものとみられている。
門の前に立って、復元された首里城などの弁柄色を想像してみたが、どうもしっくりこない。
この渋い色合いが、後に見えている地蔵堂ともあいまって、厳かな感さえ抱かされる。1973年の解体修理の際、茅葺屋根から銅版葺屋根に変えられた。
この山門は、東村山市指定有形文化財となっている。
さて、この山門を入ると、正面に千体地蔵堂が見えてくる。最初に目につくのが屋根の大きく反り返った形だろう。なぜか、初めて見た気がしないのは、鎌倉円覚寺の舎利殿とうり二つだからであろうか。
近づいていくと、波型欄間、花頭窓、どこをとっても円覚寺舎利殿とに見紛うばかりだ。一つ違う点といえば、円覚寺舎利殿は山を背にして立っているため、舎利殿正面に立って観ると、背後はこんもりした森がある。
一方千体地蔵堂は、地蔵堂の背後は広々として開けて高い建物が無いため、地蔵堂の正面に建つと、背後は広々と空が広がっている。
千体地蔵堂の建築様式は、鎌倉円覚寺舎利殿とともに唐様建築を代表する建物だ。
寺の縁起によると、執権北条時宗が鷹狩りの際病気になり、夢の中で地蔵菩薩からもらった丸薬で病が治ったことから、地蔵堂を建立したと知るされている。
この地蔵堂の中には、地蔵本尊と、10cmから30cm程度の小地蔵尊像が安置されている。
小地蔵尊像は、江戸時代の地蔵信仰が盛んなときに、多くの地蔵尊の木像が奉納され、堂内の天井に近い長押におかれたことから、『千体地蔵堂』と呼ばれるようになった。
地蔵尊に願をかける人は、小地蔵尊像を一体借りて家に持ち帰り、願いがかなえば別に一体添えて奉納するという。
奉納された地蔵尊像の裏側には、祈願者の名前や年号が入っている。1714年(正徳4年)から1729年(享保14年)のものが多く、その奉納者は、地元はもちろん、所沢、国分寺、小金井などにも及んでいる。
ここ正福寺には、東京都内最大の大きさを誇る『貞和の板碑』がある。高さ285cm(地上部分247cm)、幅は中央部分で、55cmもある。
『板碑』とは、関東中心に分布しているものは、『武蔵型板碑』と呼ばれていて、やわらかく加工しやすい秩父青石と呼ばれる緑泥片岩で作られていることから、『青石塔婆』ともいわれる。
『板碑』は、13世紀後半から17世紀初頭にかけての約400年間につくられたもので、起源については五輪等説、梢付塔婆説など諸説ある。
形は、頭部が三角形になっていて、二本の横線が刻まれ、その下に梵字や像で表した仏が配される。
正福寺の『貞和の板碑』は、東村山ふるさと歴史館に、この板碑のレプリカと説明書きが展示されている。
碑面には釈迦種子に月輪、蓮座を配し、光明真言を刻していて、銘は「貞和五年丑己卯月八日、帰源逆修」とあることから、1349年に建立されたものだと判る。
この板碑はかつては付近の前川の橋として使われ、念仏橋とか経文橋とも呼ばれていた。江戸時代から、この橋を動かすと疫病が流行るという言い伝えがあったが、1927年(昭和2年)5月に橋を改修するため板碑を撤去すると、付近に赤痢が発生したという。
これが板碑の祟りとされ、8月に橋畔で法要を営んだ後正福寺境内に安置された。
現在では、コンクリートブロックで作られた小屋の中に安置されている・・・というより、安置された場所にブロックで小屋を作ったようだ。
わずかに開いた開口部から中を覗くと、わずかな開口部から差し込む光に、刻まれた文字がうっすらと窺える。
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