52 茗荷坂と縛られ地蔵

 茗荷坂は、文京区の設置した標識では次の通り説明している。


『「茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼる坂なり云々。」と改撰江戸志

にはある。これによると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになるが、

今日では地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂をもいっている。

茗荷谷をはさんでのことであるので両者とも共通して理解してよいであろう。

さて、茗荷谷の地名については御府内備考に

「・・・・・・むかし、この所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり云々。」とある。

 自然景観と生活環境にちなんだ坂名の一つといえよう。 』


 茗荷谷駅を南側に出て拓殖大学の正門方面へと向かうと、左側は高さ3~4mはある大谷石を積んだ石垣やコンクリートの擁壁で一段高くなっており、その崖を巻くように左に大きな弧を描いて坂は下っていく。

 駅の近くは鉄筋コンクリート造りの建物が続くが、離れるにしたがって新しい住宅や古い住宅が入り混じって、閑静な住宅街が続いている。

 拓殖大学正門まで来ると、道は東に向かう道と、南に向かう道に分岐する。ここが『谷』の一番奥にあたり、地形図を見ると『茗荷谷』はここから南東方向に広がっているが、拓殖大学正門前の分岐点に立っても、周りは家が密集しており、地形ははっきり確認できるわけではない。

 拓殖大学の正門に向かって左手の道路わきの1畳ほどのスペースには茗荷が植わっていて、『茗荷谷』の地名の由来を記した標識が立っている。

 冒頭に記した『茗荷坂』の由来にでてくる江戸時代の茗荷坂が、ここから南に向かって登っていく坂だ。現代の地図と江戸切絵図を比較すると、道筋はほぼ一致する。道は緩やかなS字を描きながら小日向台地へと登っていく。


 さて、この拓殖大学正門前からみて左手の小高い山の上にある浄土宗清水山松林院深光寺がある。1639年(寛永16年)の創建で、ここには滝沢馬琴の墓がある。そう、南総里見八犬伝で有名なあの馬琴である。

 馬琴の本名は、瀧澤興邦というが、筆名は『滝沢馬琴』ではなく、『曲亭馬琴』である。亡くなる直前まで執筆活動を続けながら、82歳で亡くなったというから、江戸時代を生きた人としてはかなりの長命であった。

 この墓には、馬琴より先に没した妻とともに埋葬されていて、その後ろには、晩年失明した馬琴を助け、南総里見八犬伝を完成させた嫁の路女が眠る墓もある。

 墓碑には、馬琴の法名「著作堂隠誉蓑笠居士」と、妻お百の法名「黙誉静舟到岸大姉」と記されている。

また、墓石の基台に刻まれた正方形の中に三角形を組み合わせたような絵は、馬琴が生前使用した蔵書印の家型模様を模したものだ。

 ここ深光寺は、小石川七福神の一つで『えびすさま』が祭られている。


 さらに深光寺の左隣に、曹洞禅宗青龍山林泉寺がある。江戸切り絵図の「小石川」を見ると林泉寺と記されているところには、『シバラレ地蔵』と記されている。

 林泉寺は1602年(慶長7年)、伊藤半兵衛長光の開基として創建された。寺の入り口の階段を上ると、左右に多くの小さな舟形背光のお地蔵様が迎えてくれる。何れもかなり古いもので、江戸時代からここにあるのではないだろうか。

 そして階段を上りきり右手に目を向けると、なんと麻紐で縛られたお地蔵様が安置されている。連座の上に船型の光背を背にしたお地蔵様で、約1m位の基台も入れると高さは2mを超える。

光背には、右に『一相道円信士』、左に『即無貞心信女』という戒名が刻まれ、裏には『俗名伊藤半兵衛』と記されていることから、開基の半兵衛が両親の供養のために建てたと推測されるが、残念ながら縛られた紐で、刻まれた文字は見えない。

 人々が願いをかけるときお地蔵様を縄で縛り願いがかなうと縄を解くので、『縛られ地蔵』と呼ばれている。

 お地蔵様の右手には縛るための麻紐が用意され、浄財を入れる塔が立っている。

大岡政談の中に、縛られ地蔵は登場する。話のあらすじは次のとおりだ。


 昔、呉服屋の手代が使いの途中地蔵様の前で一休みすると、寝込んでしまった。

居眠りしているうちに、持っていた反物を盗まれてしまった。

 奉行は地蔵が怪しいといって、地蔵を荒縄でしばり奉行所に運んだ。

物見高い見物人は縛られた地蔵と一緒に奉行所の中までついていってしまった。

 奉行は許しもなく奉行所に入った人々を捕まえて、罰として三日以内に反物を持参させた。すると、その反物の中に盗まれた反物が入っていて、犯人が捕まった。


 この話に登場するお地蔵様は、葛飾区東水元にある南蔵院にあるが、この頃からここ林泉寺のお地蔵様も縛られ地蔵として有名になったようだ。

 江戸時代に書かれた観光ガイドブックとも言うべき『江戸砂子』にも、「小日向林泉寺のしばられ地蔵は大変有名である。」と記されている。

 江戸時代寺社奉行は、江戸庶民の不満の芽を摘むために、江戸市中の三か所に縛られ地蔵を作ったという説を聞いたことがあるが、ここ林泉寺、葛飾の南蔵院の他には、見つけられずにいる。

 お上はお地蔵様を縛らせて、庶民の不満を解放させようとしたのだろうか。


 縛られ地蔵の近くにあるお寺さんの掲示板には、ご住職の手によるものだろうか、可愛らしいお地蔵さまの絵とともに、次のような言葉が書かれた紙が貼ってあった。


 人間は 自分に都合の悪い人を

 悪い人だという

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