49 切支丹坂

 小石川台地と小日向台地の間の谷に向かって、西側の小日向台地から下る坂の一つに『切支丹坂』がある。 文京区はさすが『文京』というだけあって、旧町名の由来の表示や、『坂』や『旧跡』などに多くの標識を掲出しているが、残念ながらここ『切支丹坂』は、地元に掲出されている地図にはその名前の記載はあるものの、坂の標識はない。

 文京区は、江戸時代に出版された江戸切り絵図と現在の地図を比較すると、細かい路地まで非常によく現代の地図と重なる。多くの名前のついた坂が江戸から現代にも生き続けている所以でもあろう。

 『切支丹坂』の名前の由来は、この坂に隣接して江戸時代に切支丹屋敷があったからである。『切支丹屋敷跡』は、大正7年に東京都の旧跡に指定された。

 4mほどの住宅街の生活道路を歩いていくと、住宅の敷地に半分、道路に半分かかって石碑と標識が設置されているが、気が付かずにそのまま通り過ぎてしまう方も多いだろう。立ち止まってその石標を見ると、『都旧跡切支丹屋敷跡』と記された四角柱の高さ2mほどのものと、十字をかたどった高さ1mほどのものが2基立っている。さらにその後ろに文京区の設置し標識があり、次のように記されている。

 

 『江戸幕府はキリスト教を禁止し、井上筑後守政重を初代の宗門改役に任じ、気キリスト教徒を厳しく取り締まった。

 この付近は宗門改役を務めていた井上政重の下屋敷であったが、1646年(正保3年)屋敷内に牢屋を立てて、転びバテレンを収容し宗門改めの情報集めに用いた。主な入牢者にイタリアの宣教師ヨセフ・キアラ、シドッチがいた。』


 シドッチは『ジョバンニ・バッティスタ・シドッチ』といい、1668年にイタリア貴族の第三子として生まれ、ローマ教皇庁の法律顧問を務めたが、教皇クレメンテ11世の名により日本で布教活動を行うために、マニラを経て1708年(宝永5年)に侍姿に変装して屋久島に上陸した。しかしすぐに捕まると、江戸に移送されて切支丹屋敷に幽閉される。

 その後幕府の儒学者である新井白石の尋問を受け、新井白石が後に表す『西洋紀聞』や『采覧異言(さいらんいげん)』に多大な影響を与えたという。新井白石は、シドッチをイタリア本国に送還させることを提案するも退けられて、1714年(正徳4年)に47歳で亡くなるまで切支丹屋敷に幽閉された。

 2014年にマンション建設のため発掘調査したところ、3基の墓と人骨が発掘されたが、文京区の発表によると、国立科学博物館によるDNA鑑定や、人類学的分析で、うち1体は「170センチ超のイタリア人中年男性」と判明。屋敷の記録に残るイタリア人は、遠藤周作の小説「沈黙」のモデルになった享年84のキアラとシドッチしかおらず、文献から「175・5~178・5センチ」の長身で享年47とわかっているシドッチの特徴とも一致したことから、「ほぼ間違いない」と結論づけている。

 シドッチは牢役人夫婦をキリスト教に入信させていることから、日本人のものと思われる残り2体の人骨は、この夫婦のものではないかと思われる。

 切支丹屋敷は1724年(享保9年)に焼失し、以後再建されぬまま1792年(寛政4年)に廃止された。


 切支丹屋敷の石碑の立っているすぐ南側に、東に向かって下る坂がある。これが『切支丹坂』だ。道は4mほどの地元の生活道路となっていて、左右は傾斜地をひな壇状に大谷石やコンクリートで擁壁を築いた住宅街となっている。

 坂の上から見下ろすと、正面には築堤の上を丸の内線が走っていて、坂道はその下のガードの先へと続く。

 周辺には、大規模なマンションが林立しているが、ここ小日向台地は、高い建物がなく、都会には珍しく空が広々と開けていて緑も多い。しかしながら発掘調査を行う原因になったマンション建設は、周辺の反対運動も実らず竣工してしまった。

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