39 道6 人見街道と庚申塔
世田谷区を東西に通る井の頭通とほぼ平行するように『人見街道』が通っている。
律令時代の関東地方の中心地というと、武蔵国の国府のが置かれた府中市、府中に隣接して武蔵国分寺が開かれた国分寺市界隈であった。
その国府のあった府中と、杉並大宮八幡宮を結ぶ道を『人見街道』といい、『大宮路』とも『武蔵野路』とも呼ばれていた。
大宮八幡宮は、天喜年中(1053年〜1057年)に起こった奥州の乱(前九年の役)を鎮めよとの勅命をうけた鎮守府将軍・源頼義公の軍が、この大宮の地にさしかかると大空には白雲が八条にたなびいて、あたかも源氏の白旗がひるがえるような光景となり、源頼義公は、「これは八幡大神の御守護のしるしである」と喜ばれ、乱を鎮めた暁には必ずこの地に神社を構えることを誓った。
そして奥州を平定して凱旋のおり、誓いの通り康平6年(1063)、京都の石清水八幡宮より御分霊をいただいて、ここに神社を建立されたという。
『人見街道』の『人見』とは、平安、鎌倉、室町時代に武蔵国を中心とした同族的武士集団の武蔵七党のうちの『猪俣党』の一族である『人見氏』が府中市北東部に居を構え、辺り一帯を『人見村』といったことから、街道の名前が付いたようだ。
環状八号線から人見街道を京王井の頭線久我山駅方面に入ってしばらく西進すると、久我山駅に向かって緩やかな下り坂となる。坂の中ほどまで進むと、二股に道が分かれていて、袂に高さ1mほどの庚申塔が置かれている。近寄ってみると、雑草は綺麗に刈られて花が添えられていて、いまでもしっかり守り伝えられていることが判る。
杉並区教育委員会の資料等を調べると、特に移転された記録はないことから、建立当初からこの場所で行き交う人々を見守っていたのだろう。
近寄って庚申塔を見ると、上には青面金剛、下には三猿が配されているところは普通の庚申塔と同じである。残念ながら青面金剛の顔は、風化のためかはっきりしない。
左肩には、享保7年(1722年)10月と建立年月が記されていて、杉並区内最古の庚申塔である。
正面から見ると何の変哲もない庚申塔であるが、実はこの庚申塔には珍しい点がある。
向かって左の側面を見ると、『これよりひだりふちう三(み)ち』、右の側面には『これよりみぎいのかしら三(み)ち』と印されていて、道標の役割も果たしているのである。
おそらく、江戸時代に井の頭弁才天に詣でる者たちの道標となっていたのだろう。1000年を越えて道筋が残っているというのは、素晴らしいことだ。
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