33 光華寮と清華寮
京都には、戦前台湾からの留学生のために京都帝国大学が賃借した『光華寮』があった。1931年(昭和6年)に建てられた鉄筋コンクリート5階建(地下1階)で、戦前のモダニズム建築の代表的建物となっており、文化的価値も高い。
戦後中華民国が購入し、その後も学生寮として使われていたが、立ち退き訴訟を通じて中華民国に帰属するのか、中華人民共和国に帰属するのか最高裁まで争われた。
現在は、中華人民共和国在大阪総領事館の委託を受けて京都華僑総会が管理をしているが、閉鎖されて朽ち果てるに任されている。
実は東京にも同じような寮が存在したことを知る人は少ない。東京のものは京都に先立つこと5年前の1927年(昭和2年)、台湾に在住する日本人子弟や、台湾からの留学生の寄宿舎として、都心に近い文京区に旧台湾総督府の外郭団体である『学祖財団』が大日本帝国から土地を借りて『清華寮』を建設した。
都心に近い閑静な住宅街の高台にツタが絡まって建っている姿は、異彩を放っている。
谷底から緩やかな坂道を登り始めると、左手の藪の中に、落ち葉や雑草に埋もれて上に続く石の階段が見えている。
伸びるに任せて森のように生い茂った木々に陽光が遮られて薄暗い中、階段を上っていくと、朽ち果てた門が姿を現す。左右の石柱は残っていて、石柱の左右の外側にある人ひとりが通れるくらいの通用口の鋼鉄製の門扉は残されているものの、中央にあったであろう門扉は失われて、今は影も形もない。
一歩敷地に入って振り返ると、森のように生い茂った木々に周辺の景色は遮られて、ここが都心に近い閑静な住宅街の中とはとても思えない。
一歩門の中に入ると、正面に伸び放題となった木々に囲まれた鉄筋コンクリート造り3階建(地下1階)の建物が見えてくる。窓ガラスは割れて廃墟と化している。
第二次世界大戦の日本の敗戦により台湾総督府が消滅した後も、台湾人(中華民国)の入居が続いたが、いつしか中華人民共和国の留学生なども居住するようになった。
居住者達は中華民国系、中華人民共和国系それぞれが自治組織を作って管理を始めたが、両者は平穏共存していた。
しかし、建物の所有者が不明確であり、入居者がさらに第三者に転貸するなど、混乱していたようだ。
1960年(昭和35年)に設立されたある財団法人が、1978年(昭和53年)に学祖財団の理事から寄付を受けたとして所有権を主張して2003年(平成15年)に提訴すると、2006年(平成18年)に勝訴している。
土地の所有者である財務省は、「借地契約は学祖財団から財団法人には移っていない。」として、土地の明け渡し訴訟を提起する構えだ。
建物の所有権は、財団法人なのか、中華民国なのか、中華人民共和国のものなのかその帰属については外交問題になることも考えられる。
この寮の元住民達は、財団法人への建物の譲渡は、偽造されたものだとして争っている。
本来崇高な目的で建設された建物が、戦争と政治の狭間でもみくちゃにされ、朽ち果てるに任されている様子を見るのは忍びない。
2008年1月7日、住民のタバコの火の不始末から出火し寮の7割が焼けて、中国人母娘2人が亡くなった。
建物の中に入ると、構造はロの字形をしており、中央部は3階まで吹き抜けとなっている。回廊を巡ると、火災で焼かれたためだろう、壁のコンクリートは黒くすすけている。ほとんど陽光の差さない薄暗い部屋には、散乱した荷物に埃がつもっていて生活感は感じられず、廃墟となって久しいことを思い知らされる。洗面所や台所は共同で、トイレに入ると、個室は昔懐かしい水タンクが上に設置され、鎖の紐を引くと水が流れるタイプとなっている。個室の扉にはひし形の小さな窓にザラメ状のガラスが嵌められていた。何れの場所も空気はよどみ、なぜか重苦しいものを感じてしまう。
様々な怨念のこもった薄暗い建物を出ると、外の眩しさに思わず視線を降ろしてしまった。目が外の明るさに慣れてくると、玄関脇には誰も手入れをしないのに、ここで何年花をつけてきたのだろうか、スノーフレークが健気に白い花を咲かせている。
再び振り返って建物を見上げると、玄関の上には青銅製の優勝カップのようなオブジェが、陽光に優しく包まれていた。
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