31 四谷見附橋 迎賓館と調和させた橋

 現在の四谷見附橋は、新宿通りを新宿から半蔵門の方へ東進すると、JR四ツ谷駅の上に架けられた橋で、1913年(大正2年)に架けられた初代四谷見附橋の概観を踏襲して、1991年(平成3年)に完成した橋である。

 長さ44.4m、幅40mの鋼鉄製の橋で、片側4車線、合計8車線に歩道が付く非常に幅員の広い橋となっている。

 少し離れて現在の四谷見附橋を見ると、四ツ谷駅の上に綺麗なアーチがかかり、大正ロマン漂う素敵な橋で、旧四谷見附橋に酷似している。

 架け替えられる際に、旧四谷見附橋の街灯や高欄(手すり)の一部が再利用されて使われている。

 四ッ谷駅のホームから現在の橋を見上げると、橋台は煉瓦造りで非常にレトロ感溢れる造りとなっていて、鉄骨のアーチは頭上に降りかかってくるかのようにその存在感を誇示している。


 現在は新宿から甲州街道(新宿通り)を上ってくると、四ッ谷駅のところでこの四谷見附橋を渡り半蔵門へと続いているが、旧四谷見附橋が出来る前はここに橋は無く、 江戸城防衛の観点から北側に迂回して四谷門へと至った。

 現在四谷見附橋の北側に、駅を挟んで小さな橋が架かっているが、現地で確認しても橋の名を記すものは無い。その橋の東側のたもとに、木がこんもり繁っている石積みがあるが、ここが江戸城四谷門の跡である。明治時代の地図を確認すると、江戸時代と変わらぬ道筋で、新宿から走ってきた市電は、この小さな橋の上を迂回するように走っている。

 1868年(明治元年)に撮影された四谷見附の写真を見ると、四谷見附橋のある位置に屋根のかかった懸樋が写っているが、これは玉川上水を外堀の上を通すために架けたものである。

 四ッ谷駅を出ると、1897年(明治30年)に福羽美静によって建立され石碑がある。碑文を読んでみると、1896年(明治29年)に四ッ谷駅から堀端まで桜の植樹を行なったことが印されていて、福羽美静が和歌を歌っている。


 たれもみな このこころにて ここかしこ にしきをそへて さかえさせばや


 いまや福羽が植樹した桜は見当たらないが、その意志は引き継がれて、春には外堀沿いの土手に見事な桜が咲き誇り、多くの人を楽しませている。


 旧四谷見附橋は、1911年(明治44年)3月に着工し、1913年(大正2年)10月に開通した。

 橋のデザインは、この地点から南にある迎賓館(当時の赤坂離宮)の外観と調和させたネオ・バロック様式となっている。

 この橋の高欄の上方に並んだ鉾は迎賓館の正門の柵垣の縦格子がモチーフになっている。

 また、高欄の中央にある装飾の鏡と花綱は、迎賓館の朝日の間の装飾に同じものが見られるというが、残念ながら、私は見たことが無い。さらに橋の高欄の中央部にある橋銘板は、迎賓館の花鳥の間の扉の上部を模したものと言われている。

 明治維新になると、日本は『御雇外国人』による近代化を推し進めるが、『旧四谷見附橋』は日本人の力で欧米の首都などにある構造物に負けない素晴らしい橋が架けられることを世界に示した歴史的価値のあるものである。

 1950年(昭和25年)戦災復興都市計画事業により、新宿通りが幅員25mから40mへと拡幅することが決定した。

 しかし、旧四谷見附橋は昔の道幅にあわせてかけられていることから、幅員は22mしかなかった。

 1974年(昭和49年)に四谷見附橋の架け替えが決まると、地元住民や有識者による保存の要求が高まる。近世橋梁技術の貴重な交通遺産としてその文化的価値は高く、また鉄製のアーチ橋としては日本最古のものともいわれていた。

 東京都は、高まる保存の要求を受けて綿密な調査を行った結果、長年使用されてきたにもかかわらず、腐食や変形が少なく、更なる長期間の使用にも耐えられるとの結果を得た。

 その結果を受けて、保存方法について東京都は土木学会に委託して検討した結果、多摩ニュータウンの開発の中で、長池地区に復元することが決まる。

旧四谷見附橋の装飾品は、地元住民の強い要望があり、新しい四谷見附橋へと受け継がれたことは、前述のとおりである。

 1991年(平成3年)に完成した橋は、旧四谷見附橋を強く意識したデザインとなっていて、その幅員は、旧四谷見附橋の22mから40mへと広がった。

 旧四谷見附橋は、1970年(昭和45年)まで都電が走っていた。長池公園にある旧四谷見附橋のモニュメントには、橋の路面のカットモデルが置いてあるが、そこには路面電車の線路まで再現されている。


 旧四谷見附橋は、八王子市の多摩ニュータウン内の長池に移築復元されると、『長池見附橋』と名づけられた。

この橋の美しいアーチ橋は見事に復元されていて、橋の下に立つと、覆いかぶさってくるような威圧感を感じるほど大きく見える。

 また組まれた鉄骨は、素晴らしい幾何学模様を形成している。

高欄や街灯など装飾部分は、前述のとおり新しい四谷見附橋に引き継がれたためレプリカであるが、躯体は四谷見附で解体された後、工場に運び込まれて徹底的に補修された後、工場で仮組みして検査した上で、長池に運び込まれて組み立てられた。


 長池に安住の地を得た旧四谷見附橋の袂にたって眺めると、とても幅員22mには見えない。実は復元時に幅員22mから17.4mへと変更されたという。

 街燈を見上げると、外観にわずかな差がある。よく観察すると、電球の収まった白いガラスの球を支える部分のデザインがわずかに相違している。

 長池見附橋(旧四谷見附橋)は、多摩ニュータウンの豊かな里山の中にある長池公園の谷間に架かっており、緑濃い背景に優雅なアーチはとてもよくマッチしている。また緑陰から垣間見える高層住宅は、明治近代化の象徴として造られた長池見附橋(旧四谷見附橋)と見事な調和を見せている。緑青々とした芝生の土手を下ると、岸辺は自然石により舗装されていて、ヨーロッパの庭園のようにも見える。

 長池公園の谷間は別所川(多摩川水系の支流)の水源部にあたり、橋の下には噴水を備えたせせらぎが再現されている。

 橋の袂には、実際に旧四谷見附橋で使われていた『高欄』、橋の下を水道管を通すための『孔飾り石』、『橋台の角石と煉瓦』、『橋の床組み』などが展示されている。特に橋の床組みの断面を見ると、一部木材が使われていることには驚く。

 長池見附橋(旧四谷見附橋)の北東の袂にライトアップされた教会風の建物があるが、コルトーナ多摩という結婚式場である。


 古い橋が、移築されるのは非常に珍しいことではないだろうか。近代日本の歴史を見守ってきた、この長池見附橋(旧四谷見附橋)は、さらにこの先数十年、日本を見守っていくことだろう。

(四谷見附橋の移築復元については、住宅都市整備公団発行の『四谷見附橋移設復元工事誌』を参考にさせていただいた。)

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