28 江戸防衛の要 お台場から東京湾要塞まで

 江戸幕府は深川永代浦の埋め立てを行ったが、それ以外にも江戸湾を埋め立てて人工島を作っている。

 1853年(嘉永6年)、ペリーが来航して開国を迫ると、これを脅威に感じた幕府は、江戸防衛のために品川沖に11基の海上砲台・・・台場を作ることを計画した。

 1854年にペリーが二度目の来航をするまでの8カ月間に、第一台場〜第三台場が完成し、その後第五台場、第六台場が完成している。第四台場と第七台場は未完成、第八以降は未着手で終わった。しかし品川沖までやってきてこれらを見たペリーは、横浜まで引き返している。埋め立てに使われた土砂は、品川の八山や御殿山を切り崩して使われたようだ。

 作られた台場は、正方形や五角形の洋式砲台で、現在は第三台場と第六台場が残されている。これらの砲台は、やってきた敵船に対して十字砲火を浴びせられるように配置されたという。しかし一度も轟音を響かせることなく、日本は開国する。

 明治になると陸軍省の管轄となるが、その後東京湾要塞の建設が始まると、その役目を終えた。

 東京湾要塞は、帝都東京を外敵から守る為に、明治政府の手により築造されたものだ。城ケ島から夏島までの24の沿岸砲台の他、第一海堡から第三海堡まで3つの海堡が建設されている。

 海堡は、東京湾の最峡部の富津岬と浦賀水道を結ぶ位置に造成された人工島で、明治中期から建設が始まり、大正時代に完成した。

 第一海堡と第二海堡は、水深8~10mの富津岬沖に建設されたが、第三海堡は浦賀水道の水深39mもある、波浪と潮流の激しい中央部に建設された。1903年(明治36年)の第三海堡付近の地形図を見ると、建設中の第三海堡の頭の部分が海に顔を出している。

 1921年(大正10年)に完成し運用が開始されたが、1923年(大正12年)に発生した関東大震災により、第二海堡と第三海保は被害が大きく、砲台としての役目を終えている。震災後の1926年(大正15年)の第三海堡の地形図を見ると、ほぼ全形をとどめているように見える。

 昭和に入るとワシントン軍縮条約により余剰となった艦艇の艦砲を沿岸砲台に移設した結果、沿岸砲台を第一射線、その湾奥に位置する第一海堡を第二射線として、東京湾に侵入してくる外敵を二段構えに迎え撃つ体制となった。

 国会図書館に所蔵されている第三海堡の資料を調べると、「軍事機密第137号付属東京湾要塞第三海堡位置図・断面図」を見つけた。そこには、速射砲の配置図、立面図の他、水雷(魚雷)の配備図もあった。

 関東大震災で被災した第三海堡は、約4.8mも海底が沈下して海面上部分の1/3が水没し、海上交通の妨げになっていたことから、2000年~2007年にかけて撤去された。

 1947年(昭和22年)と1977年(昭和52年)に撮影された航空写真を見ると、半ば水没した第三海堡が写っていて、暗礁と化している様子がよくわかる。 第三海堡は浦賀水道中央部にあり流れが早い場所だが、半ば水没した海堡に海流が当たって白波を立てている様子が見てとれる。

 第三海堡が撤去された際、海中から引き揚げられた一部の築造物が横須賀市夏島に3棟、うみかぜ公園に1棟保存されている。

 江戸幕府が築いた品川台場は水深2~3m、第一海堡、第二海堡は水深8~10mのところに作られたが、第三海堡は水深39mのところに作られ、その工事は、波浪や潮流の激しさに加えて、台風により何度も被害が出ているようだ。

 同じく国会図書館から発掘した明治39年7月3日、築城本部 榊原昇造部長(陸軍少将)が陸軍大臣寺内正毅宛てに出した『第三海堡基礎に関する特別報告』を読むと、『・・・幾多ノ暴風怒涛ニ遭遇シ損害ヲ蒙リタルコト数次ナリシカ故に此風浪迫害防止ノタメ三十六年四月当部外面脚ニ防浪「ベトン」塊ヲ排列セシ処其施設好結果ヲ発シ再来工事着々進捗シ・・・』と記されていて、完成まで30年もかかる難工事だったようだ。

 『防浪ベトン塊』というのは、今風に言えばコンクリート製消波ブロックということだろう。

 この難工事の成功を促したものは、日本古来の築城技術と、明治になって導入された潜水技術や鉄筋コンクリート製のケーソンの採用など、和洋技術の合作の成果ともいえる。

 世界的にみて、この時代、このような場所に人工島を建設するような例は他にない。関東大震災で地盤沈下により水没してしまったとはいえ、当時世界最先端をいく土木技術として世界中から高い評価を得ている。

 その結果、アメリカの首都ワシントンの前面に位置するチェサピーク湾に海堡を建設する際、アメリカに技術情報が供与されている。

 アメリカ公文書館に保管されている資料を探すと、日本が供与した英訳された図面が保存されている。近代日本の技術輸出第一号ともいえる快挙ではないだろうか。


 第三海堡が撤去される際、4棟の建物が陸上に引き上げられて保存されているが、次の3棟を見学させていただいた。


①照灯

 海堡頭部にあった探照灯施設で、横に細長く中央部に探照灯を移動させるためのレールが残っている。(陸揚重量565t)

 中央部から左右に天井がアーチ状の内部通路が広がり、突き当りで直角に曲がる部分の各方向からのアーチの接合部分が非常にきれいに施工されている。これはかなり高度な技術だといえる。その先には階段があり屋上に上れるようになっている。


②砲台砲側庫

 全体がコンクリート一体構造となっていて、驚くことに鉄筋は確認されていない。コンクリートのみでこれだけの強度のものを作る技術があったのは驚愕に値する。(陸揚重量540t)

 後ろのやや高い位置から観ると、まるでずんぐりむっくりとした短胴のカバが寝そべっているようにも見える。

 正面に回ると左右に二か所の入り口があり中に入ると揚弾用の窓が開いている。


③観測所兼砲側庫

 引き上げられた観測所は砲台後部に位置するもので、砲側庫と一体構造となっている。入口のある正面から見て左手の円柱状の部分が観測所、右手の屋根がアーチ状になっている部分が砲側庫だ。(陸揚重量907t)

 砲側庫の中に入ると、一部が長く海水に浸かっていたため、高さ1m位まで茶色から白のグラデーションに染まっていて、その上が普通の灰色のコンクリートとなっている。壁の一方では白色と灰色の境目が約20度くらいの傾斜が付いていることから、おそらく関東大震災の影響で建物全体が傾斜して水没したのだろう。


 何れの建物にも側溝が掘られ、雨水が効率よく雨水タンクに導かれて貯蔵されていたようだ。


 国立公文書館にある第三海堡の資料にあたると、いくつかの面白い事実が浮かび上がってくる。

 そのうちの一つに建設途上にあって、第三海堡に貨物船が座礁した海難事故の調書があった。

 『第三海堡ノ土礎堆石上ヘ外国汽船乗揚ノ義ニ付申進』を読むと、1893年(明治26年)4月16日に香港から横浜に向かっていたドイツの郵船ニオベ号が、建設途中の第三海堡に座礁したことが記されている。

 この報告書に添付されている船長イー・ジー・パッフの調書には、『余ハ海峡ノ中央ニアル此新暗礁ハ之ヲ表示スル燈光不見分ニシテ数多ノ船燈中ヨリ之ヲ区分スルヲ得ザリシ』と記されている。

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