27 江戸の町9 大江戸ごみ事情 不法投棄
第17話『江戸の町7 大江戸ごみ事情』で、幕府は深川永代浦をゴミ捨て場に指定したことに触れたが、実にこれが現代のごみ収集につながる画期的な出来事であった。
幕府は『芥改役(あくたあらためやく)』を配置してゴミ処理にあたらせるが、その裏側にはゴミの不法投棄が後を絶たず、町を綺麗に保つために苦労していた事実があった。
1655年(明暦元年)になると、幕府は不法投棄を厳しく取り締まるとともに、深川永代浦をゴミ捨て場に指定する。永代浦とは、現在の江東区富岡八幡宮のある門前中町界隈で、隅田川に架かる『永代橋』、『永代通り(都道10号東京浦安線)』にその名を残している。埋め立てられたゴミは、盆に使われた聖霊棚の道具や供物、さらには火災後の土砂や灰といった物だったようだ。
以降、江戸時代だけで延125ha(125万㎡・・・東京ドーム27個分)の広さの江戸湾が埋め立てられたという。
中世において江戸の町は、人口100万を越える世界有数の巨大都市だったが、なんとその世界最大の都市が、世界一清潔な都市でもあった。
江戸時代のロンドンやパリの街では、汚物は道路に投げ捨てられ、それを掃き寄せて川に流していた。
街を歩くといたるところ汚物だらけで、テームズ川やセーヌ川は猛烈な異臭を放つどぶ川だった。
かたや江戸の町を流れる大川(現在の隅田川)は、明治の初め頃までは大川に浮かぶ屋形船は、川の水を汲んでお湯を沸かしてお茶を淹れ、料理を作っていたくらい水は澄んでいた。(その隅田川も、昭和40年代の高度成長期に入ると、黒くよどみ異臭を放っていた。子供心に「墨を流したように黒い川だから『スミダガワ』と名前が付いたと本気で思っていたくらいだ。現在は随分水質も改善され、隅田川河畔は憩いの場となっている。)
また江戸の町人は、湯屋(銭湯)に入り、よく洗濯されたこぎれいな着物を身につけ、こざっぱりとした出で立ちだったようだ。
日本人は風呂好きといわれるが、風呂好きになったのは、江戸時代に銭湯が発達した結果とも言われている。
幕末にアメリカから来日したハリス(日本総領事)は、「日本人は、よく肥えていて身なりも良く、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者も見当たらない。」と日記に書き記している。
『ゴミ』というと、その処理が大きな問題となるが、一説によると平城京がわずか84年で幕を閉じて平安遷都したのは、都市の中で処理しきれなくなったゴミ問題が一因であるとも言われている。
日本におけるゴミ処理の歴史は古く、平安時代には既に掃除に携わる官職が設けられていた。掃部寮(かもんのりょう)といい、宮中の掃除や調度の設営などを担当していた。
また、平安時代に書かれた延喜式(律令(法律)の施行細則のようなもの)を紐解くと、なんと36箇所に『清掃』という言葉が出てくる。
その代表的なものは、「役所や屋敷の前の道の清掃は、自分たちでやりなさい」というものだ。
また、「樋を設けて、通水しなさい。汚物を露出させてはいけない。」などの規定も設けられている。
このような決まりを守らない平民は、鞭打ち50回の刑罰まで決められていた。
さらに驚くなかれ、平安時代の貴族の屋敷の厠(トイレ)は、水洗式だった・・・といっても紐を引いて水を流すようなものではなく、屋敷に引き込んだ水路により常時水を流して、汚物を流していた。汲み取りの厠が発明されるのは、時代は下り鎌倉時代になってからのことだ。
また道路や庭園、公共施設を清掃する『清掃丁』と呼ばれる人を、一日米二升で定数36人を雇うということまで、延喜式で決められていた。
日本人の綺麗好きは平安の世から続いている国民性なのだろうか。
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