26 炭団坂と鐙坂

 前回は『金田一耕助』が登場したが、金田一つながりでもう一回。

 本郷三丁目から春日通りを西に向かうと、右に大きくカーブしながら下る真砂坂(東富坂)があらわれる。その下り始める地点には、都電16系統(大塚⇔錦糸町)の『真砂坂上』という名の電停(路面電車停留場)があった。現在は、都営バスの停留所が同じ名前で残っている。

 その真砂坂上から、二本の路地が北に向かっている。東側の路地を北に入っていくと、左手に文京区立ふるさと歴史館を通り過ぎ、菊坂裏通りに下りていく『炭団坂(たどんざか)』があり、西側から路地を北に入っていくと、菊坂裏通りに下りていく『鐙坂(あぶみざか)』がある。


【炭団坂(たどんざか)】

 真砂坂上停留所すぐわきの路地を北に入っていくと、2~4階建ての低中層の建物が多く、都心に近いところとしては、空が広く感じられる。

 数十メートル歩くと、左手に区立の文京ふるさと歴史館が見えてくる。入場料は100円で、地元の歴史を発掘された石器時代の石器の展示から始まり、江戸時代の庶民の暮らしぶりなどが再現されている。


 文京ふるさと歴史館の北隣は、木造の板塀に囲まれた大きなお屋敷があるがあり、木造二階建ての家が道路から垣間見えている。この建物は1906年(明治39年)に建てられた住宅で、ほぼ新築当時の形を保っているといわれている。

 勝手口には、木製の宅配牛乳を入れる箱や、木製の新聞受けがある。この邸宅を建てたのは、渋沢栄一とともに日本煉瓦製造会社の設立に関わり、のちに秩父セメントを創立した諸井恒平である。敷地北側には、日本煉瓦製造会社の上敷免をイギリス積みで積んだ煉瓦塀が残っている。


 さらに進むと、車止めが現れる。車止めの先は、菊坂の谷合に降りていく坂・・・ではなく階段になっている。

 炭団坂は、『坂』と名がついているにもかかわらず、現在は階段になっている。坪内逍遥の門下生嵯峨の屋おむろは、「逍遥宅は東京第一の急な炭団坂の角屋敷、崖渕上にあった。」と回想していることから、以前は坂道だったのだろう。

今は綺麗に整備され、階段の脇には植え込みなども作られているが、私の子供の頃の記憶では、『石積みの蹴上(1段一段の高さ)が低く、やたらと踏み面(段の上面)の長い階段』というイメージしかない。

坂の名前の由来は、「炭団などを商売にするものが多く住んでいた」とか、「急な切り立った坂道で、炭団のように転げ落ちてどろだらけになってしまうから」といわれている。


 炭団坂の上からは眺望が開け、見晴がよい。炭団坂左手から崖線にそって鐙坂まで幅1m程度の歩道が付いている。子供の頃は、ここから眺める景色が好きで、よくこの場所に来たものだ。この歩道に囲まれたところが、坪内逍遥の旧居跡で、現在ではマンションが建っている。坪内逍遥は、ここに3年ほど暮らした後近くに転居し、その跡に旧伊予藩主久松氏の育英事業として、『常盤会』という寄宿舎になった。1887年(明治20年)のことである。この寄宿舎には、正岡子規や河東碧梧桐などが寄宿した。


【鐙坂(あぶみざか)】

 私の実家は戦前までは文京区白山にあったが、強制疎開にあって取り壊され、戦後は真砂坂上から鐙坂方向に入ったところに居を構えた。家屋は昭和初期の造りで柱は黒光りし、大層趣のある家であったが、今は取り壊されて跡形もない。

 実家の北側に建っていた大正期に造られた煉瓦造りの洋館も、今は無い。怪人二十面相が暗躍する世界がまさにこの洋館のイメージにぴったりで、鎧戸の閉まっている洋館を見るにつけ、江戸川乱歩の世界に浸ったものである。

 この界隈は旧町名を『真砂町』というが、関東大震災と第二次世界大戦中の空襲をかいくぐり、古いものが多く残っている場所柄であるが、真砂坂上にあった江戸時代に建てられた足軽長屋も、2005年(平成17年)に取り壊されてしまった。


 『鐙坂』の名前の由来について、文京区の設置した坂の由来の看板には、次のように記されている。

 「『鐙』の製作者の子孫が住んでいたから」(江戸志)とか、「坂の形が鐙のようだから」(改撰江戸志)などといわれている。」とある。


 鐙坂まで歩いてくると、左右が切通しになった急坂が現れる。坂上の右手には古い木造二階建ての家が大谷石で造られた擁壁の上に立っているが、ここが言語学者の『金田一京助』旧居跡である。左手は関東財務局の社宅となっているが、私が子供の頃はここに木造の長屋のような古い建物が建っていた。戦前は本郷連隊司令部のあった場所である。


 切通しで陽光が十分に届かず、昼なお薄暗い鐙坂を下りきると、その先に『菊水湯』という銭湯が2015年9月まで営業していた。創業は明治中期と伝えられ、1962年(昭和37年)に建て替えられた銭湯は、神社仏閣を思わせる宮造りだった。

 入口は唐破風の屋根がかかり、「菊水」と書かれた鬼瓦が載っていた。銭湯の大好きな私は、子供の頃祖父や祖母に連れられてよくこの銭湯に行ったものだ。オーナーが体調を崩し、後継者もいなかったことから、廃業して取り壊された。


 本郷台地のあちこちには、未だに震災や戦災を潜り抜けた明治、大正、昭和の建物や構築物が多く残っているが、その数をどんどん減らしている。

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