25 病院坂 金田一耕助最後の事件の舞台

 第24話は明智小五郎のデビューした『D坂殺人事件』が舞台となった『団子坂』を取り上げたが、今日は、あの金田一一(きんだいちはじめ)のじっちゃんの最後の事件となった『病院坂の首縊りの家』に登場する『病院坂』を取り上げたい。

 この作品は、『宝石』1954年7月号に『病院横町の首縊りの家』という題で掲載されたが、全3回の予定が、作者である横溝正史の病気により中断してそのままとなってしまった。時は下り1975年12月号から22回にわたって『病院坂の首縊りの家』が連載された。

 物語りは1953年(昭和28年)に港区高輪の廃墟で男の生首が発見されるが、事件は迷宮入りしてしまう。

 その後20年経った1978年(昭和48年)に20年前の生首の発見者が殺されてしま

った。

 この事件は、金田一耕助をもってしても解決まで20年もかかってしまった難事件であった。金田一耕助は、事件解決後財産を処分して米国へと向かい消息不明となってしまう点は、金田一少年の事件簿をお読みの方はご存じのことと思う。


 小説に登場する病院坂は、路地の描写や近くの交番など物語に出てくる様子が、港区の高松宮邸のすぐ脇にある坂に非常に近似しているが、実際はその坂には名前は付いていない。

 金田一耕助の生みの親の横溝正史は生前成城に住んでいて、その住まいからすぐのところにこの病院坂があることから、名前はこの坂から来たのではないだろうか。


 いまこの成城にある『病院坂』を訪れると、切通しの坂道となっていて、東側は砧中学校、西側は成城3丁目緑地となっており、病院は無い。

 また、この坂には他の坂によくある名前の由来を記したような標識はないが、周辺の人々には『病院坂』の通称名でとおっている。


 以前、昔から病院坂のすぐ近くに住んでらっしゃった方に、「なんで病院が無いのに、病院坂というのか?」と聞いたところ、「戦前は坂の上に陸軍の野戦病院があって、よなよなうめき声や叫び声が周辺にもれ出ていた・・・」と語ってくれた。

 また別のご近所の方からは、「結核の隔離病棟があったらしい。」という話をしてくれた。

 1941年と、1944年の陸軍が撮影した航空写真を確認すると、成城駅を南に出て病院坂が下り始めるすぐ手前の現在明正公園となっている辺りに、4棟の集合住宅のような長方形の大きな建物が見える。これが病棟なのだろうか?

 現在区立公園となっているということから、昔はなんかしら公的な施設があったとしてもおかしくないだろう。


 この坂の下は世田谷通りとの交差点になっているが、この世田谷通りをわずか1km東進した世田谷区大蔵に旧東京陸軍第4病院(現国立成育医療研究センター)がある。

 戦争末期になって、東京陸軍第4病院が手狭となり、臨時に野戦病院を近くに構えたとしてもおかしくないだろう。車であればわずか10分もかからない距離である。


 病院坂の交通量はそこそこ多いものの、坂の中ほどは、センターラインを引けないほど狭くなっていて、乗用車がすれ違う時は徐行している。

 世田谷通りとの交差点の歩道橋から坂の上方向を見ると、S字を描いて急な勾配の坂道が続く。道の左手は鬱蒼とした森で、右手は高さが10mはあるだろうと思われる石積みの擁壁があって、その上は砧中学校だ。

 坂の上にある成城3丁目緑地から坂下方向を見ると、緑地と中学校の鬱蒼とした森が日差しを遮り、日中でも薄暗く感じて『病院坂』、『うめき声』・・・何やら現実味を帯びてくる。


 成城3丁目緑地は、豊かな自然をのこしている。ここは今までに何回も登場した武蔵野台地の南縁にあたり、この坂道のあるハケは立川崖線だ。

 このハケからは、水がこんこんと湧き出ていて、がけ下には小さな池がある。水に手を浸すと、冷たく気持ちよかった。

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