19 玉川上水 江戸から東京へ

 第18話で江戸の水源、東京の水源について取り上げたが、今回は江戸時代の水源『玉川上水』についてとりあげたい。

 玉川上水は、江戸時代に江戸の街へ飲料水を供給していた上水道で、羽村の取水堰から四谷大木戸まで43kmを露天掘りで掘りぬかれている。

 その土木技術は素晴らしく、羽村の取水堰と四谷大木戸の標高差はわずか100mしかない。四谷大木戸からは地中に埋設された木製の導水管により、江戸の街へ供給された。


 家康以前の江戸は湿地帯で井戸を掘っても海水交じりの水しか出ず、江戸の街の発展と、水の確保は切り離せない問題だった。

 家康は、1590年(天正18年)に小石川上水の掘削を命じているが、現在その詳細はわかっていない。その流路を生かして作られたのが神田上水だ。

 しかし神田上水だけで江戸の街の水を賄うにはあまりにも少なすぎた。

江戸の街の発展とともに水不足は深刻化し、1652年(承応元年)徳川四代将軍家綱は新たな上水道の掘削の計画を命じた。(着工、竣工の年代は諸説あるが、平成18年『玉川上水保存管理策定に関する委員会(東京都水道局長の諮問機関)』の報告書にある年代を採用している)


 水源は多摩川として計画され、当初は日野の渡し(国道20号線日野橋の下流で青柳村(現国立市青柳))付近の多摩川河畔から取水すべく工事が始まった。

 ところが開削途中で試験的に通水したところ、浸透性の高い関東ローム層(水喰い土と呼ばれている)により水が土中に吸い込まれてしまい、このルートを断念せざるを得なかった。

 工事責任者であった伊奈半十郎は、失敗の責任を問われて処刑されるとき「ああ、かなしい」と嘆いたことから府中市に『悲しい坂』という名前の坂が今に伝わっている。しかし史実は、どうも違うようである。その詳しい話は次回に譲り話しを進めたい。


 続いて横田基地のある福生を取水地として工事が再開されたが、掘り初めてまもなく福生市内で厚い岩盤にさえぎられて、当時の土木技術では崩して進むことができず、再び断念せざるを得なくなる。

 1653年(承応2年)4月に三度目の正直として羽村から取水し、四谷大木戸まで43kmの開削が始まるが、なんと8ヶ月で完成したという。

 この三回目の工事を請け負ったのが庄右衛門、清右衛門兄弟だといわれている。この兄弟の出自は定かではないが、江戸の町民とも、多摩川の農民とも言われている。玉川上水を完成させた功績から、『玉川』姓を名乗ることを許され、玉川上水役を命ぜられた。(玉川兄弟は工事に失敗したという説もあるが、「玉川」姓を名乗ることを許され、その後玉川上水役を任ぜられていることに鑑みてこの説は無いと私は考える。)


 1653年(承応2年)11月に完成して堰を切って通水すると、わずか一日で四谷大木戸まで水は達したという。

 1655年(明暦元年)に、現在の玉川上水小平監視所付近から分水して作られた野火止用水が、下流の新河岸川まで流れるのに、通水から3年かかったことに比べると、大成功といえるだろう。


 実は最初の失敗から、玉川上水の川底には三和土(たたき)が使われている。三和土は漆喰のように凝固し、水の浸透を防いでいるのである。

 かたや野火止用水は、素掘りしただけの所に通水したので、関東ローム層に通水した水がどんどん浸み込み、下流に水が達するまで時間がかかったのである。


 その後江戸の街に水を供給するため、本所上水、青山上水、三田上水、千川上水が開削され、『江戸六上水』ともよばれた。

 また、玉川上水はその流域にたくさんの分水を作り、武蔵野の台地を、そして人々の生活を潤してきている。


 明治維新になると江戸六上水の管理は、東京市に移管される。1897年(明治30年)に淀橋浄水場が開設されると、玉川上水の水は淀橋浄水場に供給されるようになり、1901年(明治34年)に玉川上水と、神田上水による東京市内への直接給水が中止された。その後1923年(大正12年)に、新宿駅から四谷大木戸までの水路は埋め立てられて道となった(地下に導水管が埋設されていて、現在でも通水できる状態にあるという)。


 江戸時代には瑞穂町の狭山池に端を発する残堀川の水を、立川市の天王橋付近で玉川上水の助水として取り入れていたが、明治になり残堀川の水質が悪化すると、1908年(明治41年)に残堀川を改修して現在の流路となり、玉川上水に水路橋を架橋して立体交差するようになった。1963年(昭和38年)には、玉川上水が残堀川の下を潜り抜ける現在のサイフォン式の導水路が完成する。


 1965年(昭和40年)に淀橋浄水場が廃止されると、玉川上水の役目も300年余を経てその役目を終えた・・・といってもすべての役割が終わったわけではなく、羽村の取水堰で取水された多摩川の水は、中流域の小平監視所まで玉川上水を流れると、そこから東村山浄水場まで導水管で導かれ、東京都民の飲料水となっている。

 残念ながら1971年(昭和46年)に小平監視所から先は、玉川上水下流への通水は完全に停止されて涸れてしまった。

 ところが清流の復活を待ち望む声は大きく、1986年(昭和61年)になると清流復活事業が開始され、小平監視所から下流の浅間橋まで、下水の処理水を通水するようになり、清流は復活した。

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