18 江戸の町8 江戸の水源、東京の水源

 徳川家康がやってきた当時の江戸は、鄙びた漁村だった。井戸を掘っても海水交じりの水しか湧かず、飲料水となる水源は赤坂の溜池など非常に限られていた。多くの家来を呼び寄せ、町を発展させるためには、インフラの整備・・・中でも飲料水の確保が喫緊の課題となり、家康は1590年(天正18年)に小石川上水の掘削を命じているが、現在その詳細はわかっていない。その流路を生かして作られたのが神田上水だと言われている。神田上水は、吉祥寺にある井の頭公園の井の頭池を水源としている。

 その後江戸の街の人口は増加を続け、水不足を解消するため、三代将軍家光の時代の1653年(承応2年)玉川上水の開削を玉川兄弟に命じ、わすが8ヶ月の工期で完成させたという。(着工と竣工の時期は諸説ある。)


 実は玉川上水は、最初は府中・国立で取水する計画で着工するも失敗し、2度目は福生で取水しようと工事を進めて失敗、三度目の正直で、ようやく羽村から取水して四谷大木戸まで43kmを掘り抜く事となる。なんと、この43kmの距離の高低差は、約100mしかない。なんと勾配は2.3‰しかないことになる。


 その後18世紀初頭には、100万人の人口を有する世界最大規模の街となり、水道は神田上水、玉川上水の他、青山上水、三田上水、亀有上水、千川上水などが整備され、水道の規模でも世界最大といわれた。


 それでは、現在1,360万人(東京都総務局調べ 2016年5月1日現在)が暮らすの東京都の水がめはどうなっているのだろうか。東京都の水源を全部言える方は、意外と少ないのではないかと思う。


 江戸時代の町の発展は、水の確保との闘いといっても過言ではないが、その事情は、明治、大正、昭和、平成と、近代に至るまで変わらない。明治期以降東京の爆発的人口増加を支えるためには、水源の確保が無くてはならないものであった。

 現在東京都民の水源となっているのは、多摩川水系、荒川水系、利根川水系、那珂川水系、相模川水系の5つの水系からなっていて、12ヵ所の浄水場(うち、多摩川水系の玉川浄水場は水質の悪化から現在は工業用水のみ配水している。また、杉並浄水場は地下水を配水している。)のうち10ヵ所の浄水場から、都内各地に水道水として配水されている。

 これらは、東京都水道局が行なっている水道事業だが、島嶼部を除いて東京都に水道を依存していないのは、山間部の桧原村、奥多摩町の他は、羽村市(4つの井戸から取水)、昭島市(20の井戸から取水)、武蔵野市(27の井戸から取水)の三市が、地下水のくみ上げにより各市町村が水道水を供給している。


 杉並浄水場は1932年(昭和7年)開設された浄水場だが、現在12ヵ所ある東京都の浄水場で唯一地下水を揚水して配水している。

 杉並浄水場では、特にろ過は行なわず、薬品による殺菌消毒のみで配水している。

 杉並浄水場は、旧井荻村(現在の荻窪、井草、善福寺、清水、今川、桃井界隈)の村営水道で、現在でも1932年当時の井戸と建物が使われている。取水井は善福寺湖畔にあり、だれでも見ることができる。

 昭和初期の井荻村は、村長内村秀五郎が先見の明と、実行力を兼ね備えた政治家で、関東大震災を契機とした東京西部の宅地開発をうまくコントロールして、積極的に区画整理やインフラ整備に取り組んだ結果、現在でも旧井荻村は、整然とした町並みを保っている。

 井荻村の話しは尽きないが、この話しは別項に譲りたい。

 私は子供の頃練馬で育ったが、子供の頃は各家庭に井戸があって給水ポンプによりくみ上げ、あるいは手押しポンプによりくみ上げて飲料水などの生活用水にあてていた。

 練馬だけでなく文京区界隈の武蔵野台地東縁部までは、場所によっては井戸を掘れば水を確保できたようである。

 文京区菊坂界隈を歩くと、あちこちの路地に手押しポンプを置いた井戸があり、現在では災害用井戸水として、守られている。


 さて、地下水以外の水源は多摩川水系、荒川水系、利根川水系、那珂川水系、相模川水系の5つの河川に頼っている。

一番北に位置する那珂川は、栃木県那須町の那須岳を源流として、水戸市などを通って、ひたちなか市と大洗町の境で太平洋に注ぐ。「東京を掠りもしない那珂川がなぜ東京の水源なんだろう?」と疑問に感じることと思う。

 実は、1976年(昭和51年)に霞ヶ浦導水を建設して、那珂川の水を霞ヶ浦まで導いている。その霞ヶ浦から利根川を介して北千葉道水路から江戸川に導かれ、三郷浄水場(埼玉県三郷市)、金町浄水場(葛飾区)で取水して水道水にされているのである。

 三郷浄水場は比較的新しく、1985年(昭和60年)に運用が開始された急速ろ過方式の浄水場だ。

 金町浄水場の歴史は古く、1926年(大正15年)に運用が開始された。当初は、緩速ろ過方式をとっていたが、現在では急速ろ過方式となっている。

 金町上水場は、上流の宅地化が進んで水質が悪化されたことに加えて、なんと対岸の上流に松戸市の下水処理場の排水溝があった影響もあり中水道以下の水質となってしまい、1984年(昭和59年)に当時の厚生省が発足させた『おいしい水研究会』に、「日本一まずい水道水」とレッテルを貼られてしまった。

 確かに昔は都心の水は異様な臭いがして、まずくてとても飲めたものではなかった。現在では、水系上流の下水処理能力の向上により水質が改善されたこと、1992年(平成4年)オゾンによる高度浄水処理を開始したことにより「美味しい水」との評判を得て、ペットボトルに詰めて売られている位の水質となった。

 金町浄水場の風景は、厚生労働省が選んだ『近代水道百選』にも選ばれている。東京都からは金町浄水場のほか、羽村取水堰、玉川上水、村山貯水池、山口貯水池、小河内ダムなどもこの百選に選ばれている。


 急速ろ過方式は、凝集用薬品(ポリ塩化アルミニウム等)により、水中の濁質を凝集させて沈でん池内で沈でんさせる。さらに、沈まなかった細かいものを砂ろ過で除去する方法だ。


 緩速ろ過方式は、大きな池のろ過層を一日6メートル(標準速度6メートル、冬場は4メートル程度までスピードを落とすという。)で通してろ過している。

 ちなみに急速ろ過方式は、一日120メートル以上の速さでろ層を通過させている。

 緩速ろ過方式のろ層は、上から砂、砂利、玉石を0.9mから1.5m程度の厚さに盛って、水がそれらの層を通り抜ける間に、バクテリアなどの微生物が汚れを包み込んでろ過している。

 急速ろ過方式は、緩速ろ過方式に比べて高濁度の原水でも十分処理でき、さらに用地面積が小さく済むという大きな利点があるが、緩速ろ過方式に比べてろ過水質は若干劣るといわれている。


 昭和30年代は、高度経済成長の時代で東京に人々が集中し、『東京砂漠』と称されるくらい水不足が深刻化した。その水不足を解消するため、豊かな利根川水系の水を利用することが計画された。

 利根大堰から武蔵水路(全長14.5kmを1964年(昭和39年)1月に着工して、1967年(昭和42年)3月に竣工)により利根川水系の水を荒川に導いて、東京都の朝霞浄水場(埼玉県朝霞市)、三園浄水場(板橋区)、埼玉県の大久保浄水場(埼玉県さいたま市)により、東京都民、埼玉県民に水道水を供給している。

 また、利根大堰から下流に下ると、利根川と江戸川に別れ江戸川下流の三郷浄水場、金町浄水場へも続いている。


 荒川水系の水は、武蔵水路で得た利根川水系の水とともに、朝霞浄水場、三園上水場から水道水として供給されている。


 朝霞浄水場は1966年(昭和41年)に竣工した日本で2番目の規模を持つ浄水場で、現在では急速ろ過方式をとっている。

 三園浄水場は1971年(昭和46年)工業用水道の配水を開始し、1975年(昭和50年)に上水道の配水を開始した。


 相模川水系の水は、城山ダム付近から川崎一号水道(川崎市水道局第一導水隧道)により、川崎市麻生区にある東京都水道局長沢浄水場に導かれ、世田谷区南部、大田区西部に水道水を供給している。

 長沢浄水場の歴史は意外と古く、開設は1959年(昭和34年)で、急速ろ過方式をとっている。

 多摩川水系は、なんといっても東京の水がめのメインであるが、実は多摩川水系の水の利用には、現在も玉川上水の一部分が重要な役割を果たしている。

 多摩川の羽村取水堰で玉川上水に取り込まれた水は、村山貯水池、山口貯水池、東村山浄水場などを介して水道水として供給されているのだ。


 多摩川の羽村取水堰から玉川上水に入った水は、羽村の取水堰の数百メートル下流から導水管(東京水道羽村線)により、山口貯水池と、村山貯水池に導かれている。

 そこに溜められた水は、東村山浄水場と、境浄水場に送水されているが、バックアップ用として、東村山浄水場と、利根川・荒川水系の朝霞浄水場、三園浄水場とも結ばれていて、相互に送水可能となっている。

 東京水道羽村線は、山口貯水池を建設した時に資材を運ぶために、羽村から山口貯水池まで引かれた軽便鉄道跡に敷設されていて、地上部は大部分が緑道になっている。

 また、東京水道の取水口を通り過ぎた玉川上水の流れは、羽村、福生、昭島、立川を経由して小平まで下ると、小平監視所で取水されて東村山浄水場まで送水されている。


 山口貯水池の水源は、東京水道羽村線から送り込まれるほか、羽村取水堰の上流にある小作取水堰(小作・山口線)からも送り込まれるている。

 山口貯水池に溜められた水も、村山貯水池と同じく東村山浄水場と、境浄水場へ送水されている。

 東村山浄水場は、1960年(昭和35年)に開設された浄水場で、急速ろ過方式をとっている。


 小金井にある境浄水場の歴史は古く、1924年(大正13年)に開設された浄水場で緩速ろ過方式をとっている。1944年(昭和19年)に中島飛行機武蔵野工場へのアメリカ空軍の爆撃により被弾した歴史を持つ。

 東村山浄水場から境浄水場への導水管が埋設された上は、『多摩湖自転車道』として整備されている。


 さらに多摩川を下流に下ると、世田谷区に入り砧浄水場、砧下浄水場がある。

 砧浄水場は1928年(昭和3年)に配水を開始した浄水場で、緩速ろ過方式をとっている。


 砧下浄水場は、砧浄水場から1.6km下流にあり、1923年(大正12年)に配水を開始した浄水場で、ここも緩速ろ過方式をとっている。


 砧下浄水場からさらに5km下ると玉川上水場があるが、玉川上水場は1918年(大正7年)に民間の『玉川水道株式会社』が作った浄水場で、その後東京都の所管となり、現在は水質の悪化から工業用水のみの配水となっている。


 現在東京都内の水道で何処が一番美味しいかというと諸説あり、私自身飲み比べたわけではないので評価は付けがたいが、昭島市とも、杉並区とも言われていて、いずれも地下水を揚水して配水している水道だ。

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