17 江戸の町7 大江戸ごみ事情 着物
第10話から生ゴミ、下肥、灰、古紙・・・と話しを綴ってきた。今日は『古着』とごみ収集のシステムについて取り上げたい。
反物(布)は全て手織りで造られるため、非常に生産性の低い貴重品だった。着物は一反の布を無駄なく直線裁ちしてあるので、古着はそのまま売られるケースもあったが、いったん縫い合わせを解いて反物に戻して洗濯した後、仕立て直して販売されたりもした。
着物は、最初からリサイクルを考えて作られた優れものなのだ。庶民の『衣』は親から子へ、兄姉から弟妹に使える限り使い回しされた。
擦り切れてきて再生が不能になると赤ん坊のオシメとなり、さらにその先は雑巾となって役目を終えることとなる。
一般的にリサイクルのための回収は、回収専門業者が行商をして行っていたが、古着の回収は、店を構えた営業スルスタイルだったようだ。現在の神田岩本町界隈に繊維問屋が多いのは、江戸時代に古着屋が並んでいた名残だろう。
このように再生・循環できるものは、徹底的に利用されるとともに、様々な修理屋さんがいた。
◆古くなった箒をした取りして新品の箒を販売するもの
◆欠けた瀬戸物を焼き継ぎするもの
◆抜け毛を買い取る『かもじ屋』
など、あらゆる日用品が修理され、徹底的に使い込まれたことは言うまでもない。しかし、どんなにリサイクルしても最終的にゴミは出るもの。江戸時代に不法投棄をする輩がいたことは、今も昔も変わらないということだろうか。ここまで徹底されたリサイクル社会にあっても、リサイクルできずに破棄されるごみがでてくる。
江戸時代、掘割に不法投棄されたゴミにより、船の運航に支障をきたしたことが間々あったことが記録に残っている。
幕府は不法投棄を取り締まると同時に、深川永代浦をゴミ捨て場に指定してリサイクルできないゴミを船で運んで、江戸湾埋め立てに使っていたとは、現代と変わりないが、実にこれが現代のごみ収集につながる画期的な出来事だった。
ごみ処理は、『収集』⇒『運搬』⇒『処理』という過程を経て行われる。
この幕府の施策により各家庭から出たゴミは、いったん長屋のごみ置き場に集められた後、船着場のごみ溜めへと集められ、それを船でごみ捨て場へと運ばれた。
当初は長屋の住人たちが船を仕立てて捨てに行っていたが、そのうち収集、運搬を生業とするものが生まれる。
程なくして幕府は、公儀指定の請負人以外のものがゴミを収集することを禁じ、後に業者は組合を作り、町奉行所から鑑札が与えられる。この制度は、明治維新を越え実に1900年(明治33年)まで続くこととなる。
明治に入ると、東京の人口は増加の一途をたどるとともに、開国により海外から様々な伝染病が入ってくるようになった。
そこで1900年(明治33年)に、『汚物掃除法』が公布された。近代日本における行政によるゴミ処理の始まりだ。
・・・といっても現在のように直接処理をするのではなく、行政は業者を監督するだけで、実際は請負人が運搬、処理をしていた。
この汚物掃除法では、台所から出る野菜くずなどの『厨芥』と、それ以外の家庭ごみの『雑芥』に分別して収集するように定められている。
また同法施行規則では、蓋付の容器を用意して『厨芥用可燃雑芥用及不燃雑芥用ニ区分セシムルコトヲ得』とあることから、『生ごみ』、『可燃ごみ』、『不燃ごみ』の三種類に分類されていたようだ。
厨芥は肥料に、可燃雑芥は燃料に、不燃雑芥は埋め立てに用いられた。可燃ゴミを焼却処理するようになったのは、そんなに古いことではない。同法では可燃雑芥はなるべく焼却するようにとの表現にとどまり、具体的な焼却方法については指定していなかった。
当初可燃ごみは屋外に積み上げて火を放ち、火が消えないうちに次々にごみを積み上げて燃やす「野焼き」が主流だった。日本の生ごみは水分が非常に多く、単に「焼却」といっても、簡単に燃やせるものではない。日本におけるごみ焼却炉ができたのは、1919年(大正8年)に大阪に実験炉が作られたのが始まりだ。
東京では、1929年(昭和9年)に戦前わが国で最大級の日処理量700トンの深川塵芥処理工場を完成させ、戦前のごみ焼却技術の発展を牽引した。
第二次世界大戦が始まると、資材と人手不足からゴミ収集は滞るようになる。戦時中、庭のある家庭では、庭に穴を掘ってゴミや屎尿を生めて処理していた。しかし、戦争も末期になると、極度の物資不足からゴミはほとんど出なくなってしまったようだ。
戦後東京都で厨芥と雑芥の収集を再開されたのは、1947年(昭和22年)になってからのことである。
昭和30年代に入ると、東京オリンピックの開催が決定し、海外からのお客様わ迎えるにふさわしい「綺麗な東京」を作ることが大命題となる。当時ごみは各家庭の家の前の路上に木製やコンクリート製のごみ箱を置き、そこにごみを入れていた。ごみ収集はリヤカーで、「チリンチリン」とベルを鳴らしながらごみを回収して回った。
1961年 (昭和36年)になると、今では当たり前となったごみを入れる蓋付きの青いポリバケツが登場する。これを作った積水化学のキャッチフレーズは「オリンピックをきれいな東京で」というものだった。これが爆発的にヒットして現代まで続くロングセラー商品となったことは言うまでもない。
やがて高度経済成長期に入ると、大量消費社会となりゴミは増加し続け、ついには1971年(昭和46年)には「東京ゴミ戦争」が宣言され、ゴミが最大の都市問題となった。
現在では、『食品リサイクル法』、『建設リサイクル法』、『自動車リサイクル法』などが制定され、資源の有効活用の促進が社会的命題になっている。
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