20 悲しい坂 上水工事の失敗

 各駅停車しか止まらない多磨霊園駅で京王線を降りて一本裏通りに入ると、車が1台通れるくらいの狭い道に生垣などがあって、昭和の香りが漂う閑静な住宅街が広がる。 

 そんな小路を南に行くと、路は緩やかなS字カーブを描きながら下り坂となる。ここは武蔵野台地の南端にあたり、『立川崖線』と呼ばれている古多摩川が作った浸食崖だ。武蔵野台地は東京中西部に広がるおおよそ700キロ平方メートルに及ぶ広大な台地で、その東端は文京区、台東区、港区にまで達する。上野の山の西郷さんは、まさに武蔵野台地の東端に立っている。


 この高低差を下る坂の名前は『悲しい坂』というのだが、なんとも閑静な住宅街には似合わない名前だ。

 この坂の名前の由来は、玉川上水の工事とかかわりがあるといわれている。玉川上水は、ここから直線距離にして5.5kmも北の小金井界隈を流れているのに、なぜこの地に玉川上水の工事に由来する名前が付いたのか。

 玉川上水の工事は、当初は日野の渡し(国道20号線日野橋の下流で青柳村(現国立市青柳))付近の多摩川河畔から取水すべく工事が始まった。府中市の八幡下から、東京競馬場近くの滝神社のところを東方へ向かい多磨霊園駅の南方を経て神代あたりまで掘削して試験的に導水したところ、この坂のあたりで流れが地中に浸透してしまい、下流まで流れなかったといわれている。ここ等辺の地盤は富士山の噴火した灰の積もった関東ローム層で、土中に水が浸み込んでしまい、下流まで流れなかったのである。

 坂を下りきったところ府中市の設置した石標があるが、それによると

『責任を問われて処刑された役人が「かなしい」と嘆いたことから、この名があるといわれます。このときの堀は、今も『むだ掘』『新堀』『空堀』の名で残っています。 昭和60年3月 府中市』

とある。


 杉本苑子著『玉川兄弟』では、この失敗により工事責任者をだった道奉行の伊奈半十郎忠治が責任を取って切腹するシーンが出てくるが、その後書きで、「伊奈半十郎は病死かもしれない」と述べている。

 また松浦節著『伊奈半十郎上水記』では、「二度水喰らい土に阻まれて工事に失敗。この難工事の最中、玉川兄弟と現場で打ち合わせ中に伊奈半十郎は突然心臓を押さえるようにして倒れこみ、砂川の陣屋に運ばれた。一度は回復するものの、二度目の発作に襲われ62歳で病死した。」とされている。


 史実によると、伊奈半十郎は1653年(承応2年)6月27に死亡し、道奉行は子息の伊奈半左衛門忠克に引き継がれた。子息が家督を継いだことから、工事の失敗の責任を取らされて切腹したというのは所謂『都市伝説』であり、おそらく病死したのだろう。

 平成に入り、東京競馬場脇(滝神社下)で道路工事中、玉川上水試掘跡の遺構が発掘されている。

 悲しい坂の麓に立って緩やかに上っていく何の変哲もない住宅街の坂を見上げていると、いつしか両側は鬱蒼とした武蔵野の雑木林となり、ちょんまげを結った農民や武士の行き交う姿が見えてきたような気がした。

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