15 江戸の町5 大江戸ごみ事情 生ごみ・灰
第10話から5話に渡って、江戸時代の庶民の暮らしぶりなどを描いてきたが、ようやく『第9話水道橋と後楽橋』で書いた『大江戸ごみ事情』にたどり着いた。
現在23区で出た不燃ごみは、東京湾の中央防波堤内側の海に投棄され埋め立てられている。第9話では後楽橋から見える、ごみ収集車から神田川に浮かんだ艀にごみを積み替えている様子を書いた。
江戸時代は、どのように『ごみ』が処理されていたのだろうか。現代のような大量生産、大量消費の時代ではなかったため、『もの』は非常に大切にされていたことは容易に推測される。しかし、その徹底ぶりを知ると、驚くとともに江戸の人々に学ばなければならないと誰もが感じることと思う。
江戸時代、あらゆるもののリサイクルが徹底していて、紙くずから灰や屎尿(シニョウ)までリサイクルされている。『もの』が貴重だった時代、リサイクルすることが商売になったからこそ、ここまでリサイクルが行きわたったのだろう。
現代でも資源ごみは種類ごとに分けて回収されているが、江戸時代のリサイクルの徹底振りは、とても真似ができないほどだ。
【生ごみ、下肥のリサイクル】
江戸時代は元禄年間(1650年頃)に入ると、高度経済成長時代に突入して、人口が急増していく。
江戸近郊の農家は大量消費をまかなうため、生ごみを地面に埋めて発酵させて土中の温度を上げて、その地面を油紙で覆って熱を逃がさないようにして、野菜の促成栽培をしていた。
また、人の屎尿は窒素やリンを豊富に含んだ有機肥料(下肥)となる。百万都市江戸の町は巨大な下肥の生産地となり、その消費者である近隣の農家は、長屋や商家、武家屋敷と契約して下肥を集め、その代価としてお金や農作物を置いてきた。
それでも下肥は不足しがちで、排泄物はじゃまものどころか貴重な商品として、農家同士で奪い合いになったという。特に長屋の排泄物よりも商家や武家屋敷の排泄物のほうが栄養価が高く、取引される値段も高かったとか!?
同時代のヨーロッパでは、排泄物を肥料にするという発想は無く、窓から道路に排泄物を投げ捨てて、街は汚くコレラなどの伝染病が流行ったりした。
世界最大の都市の一つであった江戸の町は、世界最先端のリサイクルシステムを構築していたのだ。
現代に目を向けると、大正から昭和初期にかけて、さらに第二次世界大戦中から戦後の昭和20年代後半まで、東京では西武池袋線や東武東上線で都心部の屎尿を郊外へ運搬していた。これはリサイクルというより、人口の増加や空襲などによる屎尿回収の停滞からやむなく行われたようだ。
井上ひさしは『コメの話』の中で『汚穢(オワイ)電車』と書いている。また『黄金列車』などとも呼ばれて、沿線住民からは顰蹙をかっていた。
【灰のリサイクル】
江戸時代の料理や暖房の熱源は、薪や炭だった。
薪や炭を燃やすと、『灰』がゴミとして残る。
下肥を使って育成された米は、脱穀した後に『わら』が残る。そのわらの50%は家畜小屋の厠肥や堆肥になり、残りの20%はわらじ、縄、蓑などの日用品に、残り30%は燃やして燃料とされた。
もちろん、使い古されたわらじや縄、蓑も役目を終えると燃料として燃やされた。
燃料や暖房の用途として薪や炭、わら等を燃やすとでてくるのが『灰』だ。灰の主成分は炭酸カルシウムだが、これは大根などを作るときに必要なカリ肥料となる。
また日本の土壌は、火山灰が多いため酸性土壌だが、これは農作物が育ちにくい環境だ。この酸性土にアルカリ性の灰を撒くことによって、酸性土を中和させる働きもあった。
そのほか農業だけでなく、酒製造業で種麹を作る際の添加剤となったり、灰を水に溶いて上澄み液(=灰汁)をとって和紙の製造に使われたり、洗い物の洗剤として使われたりもした。
そんな貴重な資源となる灰を集める『灰買い』が、お得意さんの各家庭や商家を回って灰を集めていた。各家庭では、竈や火鉢の灰を箱に入れてとっておき、灰買いが来ると売った。湯屋や大店の商家では、むしろを二つ折りにして作った袋(かます)に入れて灰小屋に保存されていたようだ。
灰買いが集めた『灰』は、『灰市』で売られた。
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