12 江戸の町2 江戸の暮らし向きと教育

【庶民の暮らし向き】

 江戸の町はその70%が武家地で、寺社地と町人地がそれぞれ15%となっていたといわれている。ところが人口の比率でいくと、武家が50%、町人が50%であったことから、町人はかなり密集して暮らしていたと推測される。


 時代劇でよく出てくる町人の暮す『長屋』は、上水井戸(神田上水や、玉川上水で配水された上水道の水をくみ上げる場所)を中心に、長屋が配されていた。上水井戸の脇には共同洗濯場があり、長屋の外れに共同トイレがあったという。


 町人が暮す一般的な長屋の広さは、間口が2.7m(9尺・・・1間半)、奥行きが3.6m(2間)、面積9.7㎡(3坪=6畳間)という狭さだった。

 戸を開けて中に入ると、1.5畳ほどの土間があり、竃が置いてある。土間に続き4畳半ほどの畳の部屋があった。狭くても各戸に竈があったということは、戦後の共同炊事場の付いた安アパートより、独立性が高かったのではないか。


 竃の燃料は薪で、暖房などは火鉢に炭をおこしていたようだ。夏暑ければ、外に打ち水をして気温を下げたという。


 夜になると、菜種油を燃やして灯りとしていた。ろうそくは高価なもので、店を構えるような商家でなければ買えなかったようだ。


 庶民の食生活はきわめて質素で、米、野菜が中心。鶏肉や、鶏卵は貴重な蛋白源だ。行商が売りに来る魚などは高級食材で、なかなか手が出るものではなかったが、一方『初鰹』などの季節の初物に大枚はたいて味わう贅沢も、江戸時代に始まったようだ。


 内風呂は火災予防の観点から大身の武家屋敷に限られ、人々は町の銭湯に通った。現在の浴槽に浸かるという入浴スタイルは、江戸中期頃に確立されたようだ。

銭湯は、庶民の娯楽、社交場としての機能があり、落語なども行なわれていたという。

 男湯と女湯を設けるのは、経営的に困難で、男女混浴だ。

幕府は、何度か混浴を禁止したが、守られなかった。なんとも羨ましい時代である。



【教 育】

 江戸時代は、庶民の教育も非常に進んだ時代だ。

中世における江戸の町は、ロンドン、広州、北京とならんで人口100万を越える世界最大級の都市だった(ジョージ・モデルスキー (George Modelski)著『World Cities: –3000 to 2000』の1800年代より引用)が、江戸の町はおろか周辺の農村部まで、所謂「寺子屋」が庶民の間に定着しており、子どもたちは、読み、書き、そろばんなどの手習いを寺子屋に通って学んでいた。


 寺子屋での教育は、字の読み方、習字、算数に始まり、地理、歴史や、手紙の書き方なども教えていだ。その教育方法は、先生が全員をみるのではなく、年長者が年下のものに教えるというものだった。後年、ボーイスカウト運動の創始者で青少年教育の基礎を築いたイギリス人のベーデンパウエルは、その著書の中で「寺子屋」を理想的な教育方法であると言わしめている。


 寺子屋への子どもの就学率は、1850年頃の嘉永年間には80%前後にも及んだといわれている。

ちなみに、当時の先進国の就学率は、次の通りだ。


 ◆イギリス  20.0% 1837年の調査

 ◆フランス   1.4% 1793年の調査


 19世紀半ばにおける日本人の識字率は、世界最高水準にあったと言われ、来日した外国人は驚いたといわれているが、8割の子供に教育を施すというのは、文化水準、生活水準が世界的に見てかなり高かったといえるだろう。


 寺子屋の起源は、中世寺院での教育に遡ることから名づけられたものだが、「寺子屋」と呼んだのは主に上方方面で、江戸では寺子屋の「屋」の字が屋号に通じることを嫌い、「手習指南所」とか「手跡指南」と呼ばれていたようだ。

 たしかTBSドラマの『JIN』で、芸者をやめた野風が『手習い指南』というビラを撒いているシーンが出てきたと記憶しているが、しっかりした時代考証に基づいて作られているのではないだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る