8 松竹橋 東映vs松竹戦争

 かつて蒲田駅東口には、松竹キネマ蒲田撮影所があった。現在はアロマスクエアと呼ばれている。

 かつて、松竹キネマ蒲田撮影所の正門の前には逆川が流れ、俳優さんや撮影スタッフなど関係者が蒲田駅からやってくると、『松竹橋』を渡って撮影所に入っていった。


 1936年(昭和11年)に、町工場の多い蒲田では「工場の騒音が映画撮影に影響を及ぼす」との理由から大船に移転する。

 撮影所移転後もこの地に松竹橋はあったが、戦後の混乱の最中松竹橋が掛け替えられると、旧来の橋の『松竹橋』と記された親柱は所在不明となった。


 JR蒲田駅の京浜東北線のホームの電車発車音は、『蒲田行進曲』であるが、蒲田行進曲は松竹キネマ(現・松竹株式会社)蒲田撮影所の所歌である。

 蒲田行進曲の原曲は、ルドルフ・フリムルの1925年のミュージカル「放浪の王者(The vagabond king)」の中の「放浪者の歌(Song of the vagabonds)」だが、その旋律に堀内敬三が歌詞を付けて映画「親父とその子(1929年、監督・五所平之助)」の主題歌として発表された後、1929年(昭和4年)8月、川崎豊と曽我直子のデュエットで、コロムビアからレコードが発売された。


 1982年(昭和57年)に、東映出身の深作近二監督が『蒲田行進曲』を発表した。

この映画は、第6回日本アカデミー賞で最優秀作品賞・最優秀監督賞・最優秀脚本賞・最優秀主演男優賞・最優秀主演女優賞・最優秀助演男優賞・最優秀音楽賞と各部門を総嘗めにしたほか、映画界の各賞を多数受賞している。


 なんと松竹は、東映出身の深作欣二監督に、松竹の象徴とも言える『蒲田行進曲』の名を冠した映画を撮られてしまったのである。

 これに憤った松竹出身の野村芳太郎監督は、仇討ちを果たすべく制作指揮をし、山田洋二郎がメガホンを握って1986年(昭和61年)に『キネマの天地』を発表した。

『キネマの天地』のエキストラの中には、エドはるみ、出川哲郎らが出演しているのは、知る人ぞ知るである。

 『キネマの天地』は、第4回ゴールデングロス賞優秀銀賞を受賞している。


 このキネマの天地を撮影する際にセットに使った松竹橋の親柱がアロマスクエアの外の植え込みに据えられ、市民に愛されている。

 この事を知った本物の親柱を所有していた方から寄贈の申し出があり、現在本物の親柱は、アロマスクエアーの中にある市民ホールのロビーに飾られている。


 さて、この地をなぜ『アロマスクエアー』と名づけられたかご存知だろうか。

 ここは、松竹キネマの跡地であるとともに、現在東証一部上場の『高砂香料工業』創業の地でもあるのだ。

 高砂香料は1920年(大正9年)、この地に日本初の合成香料製造会社として設立された。


 また駅からさらに東に歩くと、旧新潟鉄工蒲田工場の跡地に出る。1921年(大正10年)新潟鉄工所蒲田工場がこの地に竣工した。この工事で日本初のディーゼルエンジンが造られたことを記念して、石碑が設けられている。

 ディーゼル機関というと、「機関車用かな?」とも思ったが、この時造られたディーゼルエンジンは、漁船用の船舶エンジンだった。

 1976年(昭和51年)まで、ここで新潟鐵工所は操業していたが、群馬工場に統合されてその幕を閉じ、現在は蒲田高校と蒲田一丁目団地となっている。

 ディーゼル機関は、1892年(明治25年)に、ドイツ人技術者だったルドルフ・ディーゼルが発明したもので、内燃機関の中では最も熱効率に優れたエンジンである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る