7 猫又坂と白鷺坂 魑魅魍魎跋扈する大江戸

泉鏡花の彌次行は次の話しではじまる。


『今は然る憂慮なし。大塚より氷川へ下りる、たら/\坂は、恰も芳野世經氏宅の門について曲がる、昔は辻斬りありたり。

ここに幽霊坂、猫又坂、くらがり坂など謂ふにあり、好事の士は尋ぬべし。』

ここにでてくる幽霊坂は『湯立坂』という。くらがり坂は『暗闇坂』のことであろうか。


不忍通りは、不忍池の畔から北上し、千駄木付近で大きく左にカーブし、西に向かう。

そのカーブの中心が『千駄木山』と呼ばれる本郷台地の一角にある丘だ。

その丘に向かって、南から『狸坂』、『きつね坂』、『むじな坂』、『動坂(堂坂)』、『稲荷坂』と名づけられている。


そして、その近辺には『不動坂』、『猫又坂』、『白鷺坂』、『幽霊坂』、『暗闇坂』、『鼠坂』などがある。

これらの名前を聞いただけで、何かしら魑魅魍魎の跋扈する江戸を舞台とした怪談が思い浮かんでこないだろうか。


東京が大きく変貌を遂げるきっかけが、過去3回あった。

一回目は1590年の徳川家康江戸入場である。

一面茅原だったところに、江戸の町は誕生する。


二回目は明治維新である。

ここで、近代日本の礎が築かれるとともに、江戸から東京となり大きく発展した。


三回目は関東大震災である。

それまで江戸情緒をとどめた町並みであったところが、大きく変貌を遂げる。


家康は江戸城を整備するに当たり、鬼門の方角に『不浄門』を設け、その先の上野の山には寛永寺をおいた。

ここら辺は、さらに寛永寺の外周にあたる。


町が出来ると人々が集まり、その人々の怨念に呼び寄せられて魑魅魍魎、妖怪、幽霊が集まってきたのだろう。

これらの名前の坂を見ただけでわくわくしてくるのは私だけだろうか。


不忍通りを不忍池からぐるっと千石まで進むと、千川通りと交差する『千石三丁目交差点』へと至る。

ここは西北から南東に走る千川通りが谷間になっていて『千川谷』と呼ばれ、千石3丁目交差点をはさんで不忍通りの千石三丁目交差点に向けて下る坂が猫又坂、交差点を過ぎて大塚方面に上る坂を白鷺坂という。


この谷間に流れていた千川は第6話にも書いた通り昭和9年に暗渠となり、その上を千川通りが通された。

冒頭で取り上げた彌次行に出てくる幽霊坂は、正式名称を『湯立坂』といい、千川通りをはさんだ反対側の簸川神社に詣でようにも川を渡る手立てがなく、坂下から川向こうの簸川神社に向かって湯花を立てたことから『湯立坂』と名が付いたというくらい大きな川だった。おそらく坂の両側は鬱蒼とした森で昼なお暗く、『幽霊坂』と呼ばれるようになったのだろう。都内各地に『幽霊坂』の名が残っているが、共通しているのは昼なお暗く幽霊でもでそうな雰囲気だったことから名づけられた点だろう。


矢田挿雲の書いた『江戸から東京へ』にも、この界隈のことが記されている。

『江戸から東京へ』第八巻の冒頭を飾っているのが『小石川の流れ』という章である。

それによると、江戸時代の文献には「小石川という大川の入り江に白山御殿(現在の小石川植物園)あり、舟つなぎの老松があった」ことから、昔は小さな川ではなかったのだろうと紹介している。


さらに、「明治時代の地図を見ると千川通りの道筋に川が流れている。

巣鴨の西北から流れ出し、ネコマタ橋の下を、御殿跡(小石川植物園)の南にでて、伝通院の後ろから柳町をすぎ、嫁入り橋すなわちコンニャク閻魔の前、善雄寺のうしろから水戸候屋敷―現今の砲兵工廠に流れ入って神田川に落ちる。」とある。


明治時代の地図をみると白鷺坂と猫又坂の位置が現在の不忍通りより少し北に位置しているようだ。

現在の不忍通りは1922年(大正11年)の開通である。



『猫又坂』という坂の名前は、千川(小石川)に架かる『猫又橋』から坂の名前がついた。

『続江戸砂子』によると、「むかしこの辺りに狸がいて、夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊る。」という話があった。

あるとき、大塚辺りの道心者(若い層)が夕食に招かれた帰り道、ススキの茂る中を白い獣が追ってくるのであわてて逃げ出すと、誤って千川に落ちたことから、狸橋、猫貍橋、猫又橋と呼ばれるようになったという。


また、かつては木の根っこの股で橋をかけたので、根子股橋と呼ばれるようになったとも言われているようだ。

大正7年に立派なコンクリートの橋となったが、千川が暗渠になると猫又橋は撤去された。その袖石が現在に伝わって、千石三丁目交差点近くに飾られている。



江戸時代このあたりは伊達宇和島藩主の下屋敷があった。

古木老樹がうっそうと茂り白鷺の集巣地となっていたという。

1922年(大正11年)に不忍通りがこの下屋敷を貫通して開通すると、誰が言うともなく背千石三丁目交差点から大塚方面に上る坂を『白鷺坂』と呼ぶようになったという。


アララギ派の歌人古泉千樫(1886年~1927年)は、ここに毎日通いつめて白鷺を題材とした短歌を作ったといわれている。

『鷺の群れ かずかぎりなき鷺の群れ そうぜんとして寂しきものを』


さてさて『猫又』とは『猫股』とも書き日本の伝説の生き物だ。

飼い猫が長い年月を生きて歳を取ると、妖怪に変化するという。

猫又の語源は、猫がのろいをかけるとき、のろいをかける人をまたぎながらのろいをかけるからとも、猫の尾が二本あるいは尾の先が二つに分かれていることからとも言われている。


猫の中でも黒猫の猫又が一番妖力が強いといわれているそうだ。

猫又のうち修行を積んで永遠の命を手に入れたものを猫魈(ねこしょう)と呼ばれ恐れられている。


猫又は人の言葉を話し、人を食い殺してその人に成り代わったりもするので、注意が必要だ。

『徒然草』の第八拾九段には、

「奥山に、猫又というものありて、人を食ふなると言いける」とある。

奥山といえば、福島県に『猫魔ヶ岳』や、富山県に『猫又山』があり、これらの山を登るときは、猫又に喰われないように注意が必要だ。

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