『焦目』
矢口晃
第1話
箱根に来てはみたものの、僕らは何をするでもなかった。大涌谷に行くでもなければ芦ノ湖に足を伸ばすでもなく、僕は当時学校で流行っていたスポ根ものの漫画を読んだり、彼女は携帯電話でインターネットをしたり、とにかくお互いが全く関係のないことをして、退屈な時間を持て余していた。
僕たちは二人とも高校生だった。その数か月前から、僕が学校に内緒で始めたアルバイトで貯めた数万円の貯金を持って、夏休みも終わりに近づいた頃、僕から彼女を誘って箱根への一泊旅行に行った。
彼女は家を出る時、「女友達の家に泊まりに行って来る」と両親に嘘を言ってきたようだった。もし親が友達の家に電話をして、嘘がばれたらどうしよう。そんなことをずっと気にしていた。
そんなせいもあったのだろう。彼女は僕と待ち合わせた駅で電車に乗ってからも、あまり口を聞きたがらなかった。どちらかと言えば暗い顔で何か考え事でもしているような表情で、僕が話しかけても薄い愛想笑いを返すくらいでそれ以上の会話にならなかった。
彼女は名を澤田朝子と言った。まだクラスが別々だった一年生の時、僕が廊下ですれ違った瞬間に、澤田に一目惚れをしてしまった。その年の秋に思い切って告白をしたのだけれど、その時は澤田にも好きな人がいるということで、残念ながら断られてしまった。だが、それでもちろん彼女のことをあきらめた訳ではなかった。
それから約半年後、二年生に上がった時に、僕は幸運にも澤田と同じクラスになることができた。このチャンスを逃してはもったいないと思い、僕は新学年が始まって早々、澤田に二回目の告白をした。その頃には、澤田も想いを寄せていた先輩に振られてしまったという噂を聞いていたせいもあった。
しかし結果は、見事惨敗だった。いいお友達でいましょう。それが、澤田からもらった二回目の返答だった。
澤田は育ちのいいお嬢様でクラスでも知られていた。授業中におしゃべりはほとんどしなかったし、成績は学年でも常にトップクラスだった。つやつやと光沢のあるセミロングの黒髪を、夏の暑い時季にはポニーテールに結んでいた。話しかければ誰とでも笑顔で気さくに話ができたので、男子にも女子にも友達が多かった。
丸刈りで成績は下から数えた方が早くて、いつも野球部で泥んこになっている汗臭い僕なんかに、彼女が魅力を感じないのも無理はなかった。もっと大人で、何でも知っていて、車も持っていて、頼りがいのある、ちょうど僕なんかとは正反対の男でないと、きっと澤田の気持ちは揺れ動かないのにちがいなかった。
それでも僕はあきらめなかった。僕はなりふり構わず澤田にアタックをし続けた。がむしゃらに頭を下げ続けた。その甲斐あって、僕は夏休みの一泊旅行に、澤田を誘いだすことに成功したのだ。
天にも昇る気持ちというのは、まさにその時の僕のようなことを言うのだろう。それからというもの、僕は野球部の練習がない日を使って、せっせとアルバイトに精を出した。もともと僕はレギュラーでもない補欠だから、練習に少しくらい手を抜いたって誰も何も言わなかったのだ。こんな僕なんかに構っているより、自分たちの練習に集中する方が、レギュラークラスの部員たちにとってははるかに重要だったのだ。そういう事情も手伝って、僕はさらにアルバイトに真剣に励むことができた。
二か月ちょっと働いて得た給料をもとに、僕は澤田との旅行のため、綿密な計画を練った。都内から新幹線を使わずに、僕の貯金だけでぎりぎり遠出できる場所は、どうやら箱根あたりしかないようだった。
「箱根あたりがいいと思うんだけど、どうかな?」
八月初めのころ、僕は絵文字を使って澤田にメールを送った。それから約二十四時間後に、
「いいわね」
と、絵文字のない簡単な返事が澤田から送信されてきた。
それから三週間ばかり後、僕はとうとう澤田と二人っきりで箱根のコテージまでやって来たのだ。
「佐々木君とは、友達以上にはなれないからね」
「わかってるって」
出発前、僕は澤田から何度もそう念を押されていた。だからというわけでもないが、旅行中、僕は何となく澤田に話しかけづらかった。
避けられている感じがした。拒まれている感じがした。やっぱり旅行なんかに誘われて、迷惑だったのだろうか。そんなことを考えながら、僕はじりじりとした苦しい時間を過ごした。
さらにコテージに到着してから受付で聞いて初めて知ったのだが、僕の借りた部屋は、夏場の宿泊料がその他の季節よりも一人五千円も高いというのだ。さらにフライパンや卓上コンロを借りるにも、その都度貸出料がかかるという。
「そんなの、どこにも書いてありませんでしたよ」
悔しくなって、僕は持っていた旅行ガイドを受付のおじさんに見せようとした。が、
「そんなのうちは知りません」
と、ばっさりと冷たくあしらわれてしまった。
せっかく澤田を楽しませようと、何週間にもわたって入念に計画を練ってきたのに、この予想外の出費のために、僕らは観光地に移動するための費用を失ってしまった。遠路箱根まで来たというのに、コテージに釘づけにされざるを得なくなってしまった。
澤田にいい所をたくさん見せようと思っていたのに。
がっくりと肩を落としている僕の後ろから、
「仕方ないわよ」
そう話す澤田のかすれた声が聞こえた。振り返ると、疲れきった澤田の顔があった。その顔全体に、落胆の表情がありありと見えた。
そういう事情で、最初にも言った通り、僕らは箱根に来てはみたものの、特に何をするでもなかった。お互い微妙に距離を置いたまま、関係のないことをして退屈な時間を過ごしていた。
「そろそろ夕飯の時間だね」
時計がようやく午後六時を回り、空高く輝いていた太陽が西の空に傾いたころ、思い出したように僕がそう言った。
「そうね」
あまり時計を見もせずに、澤田は返事をした。もちろん、僕の方になど視線すら送らなかった。
「夕食の準備をするよ」
僕はそう言って立ち上がると、背負ってきたリュックの中から、三合分の米の入った袋を取り出し台所に向かった。
「何か手伝う?」
澤田は申し訳程度に僕に尋ねたが、
「いいよ、俺がやるから」
僕がそう答えた後は、僕に何も話しかけなかった。
米を研いでから、ジャーにセットをして炊飯ボタンを押した。ここまでは、部活の合宿でもやったことがあるから手慣れていた。
問題は、ここからだった。
僕は冷蔵庫を開けると、コテージから歩いて十分のところにあるスーパーで買ってきた、二尾五百円のサンマを取り出した。包装してあるラップを強引に指で破り、二尾のサンマをまな板の上に並べた。
これから、僕は生れて初めてサンマを焼くのである。澤田の前で僕がサンマを香ばしく焼くことができたら、きっと澤田も僕のことを男らしいと思ってくれるに違いない。そう期待して、僕は一大決心のもとこの二尾のサンマを買ったのだ。
ガスコンロに火をかけ、その上に網を置いた。その網の上に、慎重にサンマを一尾ずつ並べていった。
じゅう、と焼ける音を立てるかと思いきや、初めは意外と静かだった。ところがしばらくすると、とたんにもくもくと大量の煙が立ち始めた。
「サンマ?」
台所から壁一枚向こうに座っている澤田が、僕に尋ねた。
「そう」
僕が涙目になりながら答えると、
「換気扇、回したら」
穏やかな口調で、澤田が言うのが聞こえた。
すぐ目の上にあった換気扇のスイッチを押すと、「ブーン」と低い音を立てながら、台所にこもった煙を、換気扇がどんどん吸いこんでくれた。そのおかげで、僕の目の痛みもだいぶ楽になった。
と安心するのも束の間、今度はサンマの網の下から真っ赤な炎が上がってしまった。サンマから垂れた油が火力に勢いをつけてしまったのだ。慌てて網ごとサンマをコンロから放すと、どうにか火の勢いは元に戻ってくれたが、肝心のサンマは、網の上でもはや片面だけ丸焦げになってしまっていた。
何やってんだ、俺は。
しかし、怒っている場合ではない。今はとにかくサンマを焼かなくては。込み上げて来る自分に対する怒りをやっとの思いで沈めながら、僕は網の上のサンマを、菜箸を使って慎重にひっくり返そうとした。しかし皮が網に焦げ付いてしまっていて、ひっくり返そうとした途端に大きな身が皮ごとぼろっと剥がれてしまった。
だがまだ一尾目だ。二尾目を成功させれば何とかなる。自分を奮い立たせながら、僕は二尾目のサンマをさらに慎重な手つきでひっくり返そうとした。慎重になり過ぎたあまり、サンマに添えようとした左手の親指が鉄網に触れてしまい、軽くやけどを負ってしまった。
それから悪戦苦闘を続けながら、僕はどうにか食べられるまでサンマに火を通すことはできた。しかし焼き上がる頃には、それは最早サンマとしての姿を保っていないまでに、見るも無残な状態になってしまっていた。
悲しい気持ちを押し殺しながら、僕はサンマに添える大根を下し始めた。これも手順が逆になってしまったことに、僕は後から気がついていよいよ自分が情けなくなった。下したばかりの大根おろしはとても辛いし、大根を下ろす間にサンマが冷めていく。
悪循環。何をやっているのだ、またとないチャンスがすっかり台無しではないか。僕は自分を責め続けた。
だが、出来栄えはどうあれ、それらを食卓に並べるしかない。他には何も食べるものなど持っていなかったのだ。
澤田にどんな表情をされても、どんなに落胆されても、しょうがないとあきらめるしかない。もともと勝ち目のない勝負だったのだ。僕は茶碗に炊き立てのご飯を盛った。――自分にそう言い聞かせながら。
案の定、テーブルの上に並べられた食事を見ても、澤田はにこりともしなかった。
「これを食べるの? 私が?」
そう言わんばかりの雰囲気さえ漂っていた。実際、そう言われても仕方のない内容だった。焼いたサンマと、白米だけ。しかもそのサンマは、丸焦げでぼろぼろ。だれが見たって、おいしそうなんて思うはずがなかった。
食卓にはさっきまでのサンマの煙と入れ替わって、気まずい空気が充満していた。僕は何も話しかけられず、澤田は何も話しかけようとしなかった。沈黙のまま、しばらくテーブルを挟んでお互いが向かい合っていた。
しゅんとした僕は、胸を張って澤田の顔をみることもできなかった。張りつめた重い空気に、僕は押し潰されそうだった。
部屋の隅でついているテレビのバラエティー番組の笑い声が、虚しく二人の耳に入って来ていた。
謝った方がいいだろうか。無理にこんな遠くまで連れてきてしまったことを。楽しくな時間を過ごさせてしまったことを。情けない僕のことを。この、焦げ目だらけのサンマのことを。
僕は、今にも泣き出してしまいたい心境だった。
バラエティー番組が一段落して画面がコマーシャルに切り替わった頃、澤田がゆっくりと箸を持ち上げた。
「初めて、サンマ焼いたの?」
これと言った表情もない顔で、僕に聞いてきた。
「うん。初めてなんだ」
僕は澤田の目をまともに見ることができなかった。
「難しかった?」
少し首を傾げて聞いてくる澤田の様子を、僕は上目づかいにほとんど盗み見るようにして見ていた。
「うん、難しかったよ」
ごめんね、という言葉が喉元まで出かかっていたが、あいにくそれを言葉にするタイミングを逃してしまった。
澤田は丸焦げのサンマに箸を近づけると、きれいなところから身を一切れ取った。そしてそれを口の中に運んでから、ゆっくりと数回噛んだ。
「食べないの?」
まだ箸も取れずにいた僕に、澤田が淡々とした口調で言った。僕は促されるように箸を持つと、全く食欲のわかない焦げたサンマに手をつけようとした。
その時だ。
「おいしい」
澤田の、そういう小さな声が僕の耳に聞こえたのは。
「えっ」
思わず見上げた澤田の顔には、すっかり忘れかけてしまっていた自然な笑顔があった。
澤田はにこにこと楽しそうに笑いながら、皿の上のぼろぼろになったサンマの身をもう一切れ口に運ぶと、今度はさっきよりもっとはっきりした声で、
「おいしいね。このサンマ」
と僕に向かって言った。
僕はその笑顔を見て、その言葉を聞いただけで、それまでの悲しく憂鬱な気持ちが一気に解消した。
真っ暗だった海の果てから、眩しい太陽が一気に顔を出したような心境だった。
今なら、死んでもいい。
心の底からそう思ったのは、この瞬間が初めてだった。
『焦目』 矢口晃 @yaguti
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