第3話

 満八十歳といえば、からだにどんな変調が

あってもおかしくない。

 幸いなことに、茂は今までどの部分もわず

らったことがなかった。

 やれやれ、何がどうなっているか知らんが、

どうやら俺も覚悟をしなくちゃならないみた

いだな。

 彼はそう思い、とにかく成り行きに任せる

ことにして、両眼をつむった。

 もうこれまでと思うと、昔のことがよみが

えって来て困った。

 なんといっても苦労をかけたのは、妻のス

イだった。

 三代続いた八百屋で、彼は二代目。

 せがれの義之が三代目で、店をスーパーマ

ーケット風にしたいと言った。

 唯一の競合店が先にスーパーにした。

 負けるわけにはいかなかった。

 銀行から融資を受けるのに、バブル景気が

手伝って、それほど苦労はしなかった。

 借金なしに苦しむことを覚悟したが、ほと

んどなし終えたのが、バブルがはじける前。

 運が良かった。

 吸収合併とやらで、半世紀かけて作った町

が、隣の市にのみこまれるようになくなった。

 大型スーパーが進出してきてから、店の客

が激減した。

 「あんた、だめだんべな。こんな所ですわ

りこんでいたら。なりはわるいし、かぜをひ

いちまう」

 ふいに耳もとで懐かしい声がした。

 驚いて、彼は目を開けた。

 だが、まわりに人の気配はない。

 もう一度、彼は目を閉じ、深く息を吸いこ

んでから、ゆっくり吐きだした。

 女の声はあまりにひそやかだった。

 これは夢だ、そうに違いないと彼は思った。

 「ばかやろう。死んでまで、俺に文句を言

うやつがいるか」

 彼は、相手をなだめるように、ゆっくりと

言った。

 「あたし、死んだ?うそでしょ。そんなわ

けないでしょ。ほらこうして、手だって足だ

って・・・・・・」

 それ以上、彼女の声が続かない。

 しばらく、黙りこんでいる様子である。

 風が吹きすぎて行くような音がする。

 そのうち、うっうと泣き崩れる声がしはじ

めた。

 極楽か地獄かしらんが、あいつ、まったく

寂しい所にいるもんだなと思った。

 可哀そうにと思う気持ちが強くなってきた

から、

 「まあ、そのうち俺も行くからな。それま

で待ってろな。なあに、そんなに時間がかか

らないから」

 と言った。

 突然、アスファルトを削り取るようなタイ

ヤの音がしたかと思うと、茂の背中が軽くな

った。

 目を開けると、すぐ前にダンプカーが停ま

っている。

 ちょっと先の信号が赤に変わったらしい。

 

 


 

 

 

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