第6話

 その男が町に現れたのは、丁度小鳥坂桜が咲き始めた時のことだった。

 卒業を控え優一は地元の小さな商社に就職が決まっている。

 学校も無く、今は毎日のように今日春と出かけていた。

 就職して働くようになったら今までのように今日春に付き合えなくなる可能性が高いからだ。

 (まぁ出勤前の散歩ぐらいなら大丈夫そうだけど)

 それでもきっと今までよりは一緒に行動しなくなるだろう。

 そう思うと何故か落ち着かない気分になった。



 (依存してる)



 多分――。

 面倒をみてやらなくては今日春は生きていけないから――そう思っていた。

 自分がやってやらなくては……と。

 でも少し離れてみると自分の方が今日春を必要としていることが分かった。優一は今日春の面倒を見ることで己を保っているところがある。

 今日春が人を殺すことが当たり前のことのように、優一もまたこの殺人鬼の面倒を見ることが当たり前のことになっていた。

 きっと依存してるのは優一の方なのだろう。

 今日春は身の回りの面倒を見てくれるなら誰だって構わないと思ってるに違いない。

 猫が餌をくれる人間に懐くのと同じだ。

 猫は餌を寝床を飼い主が提供するから懐く。

 今日春も食事を散歩を、風呂を、身の回りのことを優一がするから便利だから傍にいるのだ。

 そんなことに最近ようやく気が付いた。

 気が付いたからと言って、自分達の関係は何も変わらない。

 むしろ気が付いたからこそ優一は前よりもっと優しい気持ちで今日春と接することができるようになった気がする。




 「満開だな」

 林のおばあさんの桜並木。ソメイヨシノは今年も満開に花を咲かせていた。

 きっと肥料がいいのだろう。

 突き抜けるような青空と薄紅色の桜の花のコントラストは何度見ても美しい。

 「おばあさんいないね」

 めずらしく並木道に林のおばあさんの姿が見えず今日春は不思議そうに言葉を漏らした。

 「まぁ、この木の下に住んでるわけじゃないから居ない時もあるだろ」

 そういえば、林のおばあさんの家はこの並木道から20分も歩いた場所にあるのだ。

 むしろ毎回来る度に会っていたことの方が奇跡に近かったのかもしれない。

 さて――次はどこに行こうか、そう歩みを進めようとした時、


 「ああ、いたいた!ようやく第一町人発見!」


 向かいの道から見慣れない感じの男がこちらに向かって嬉しそうに走ってきた。

 明らかに彼は『外』の人間だった。

 嫌な感じがする。

 今すぐ無視して走って逃げようかとも思ったけれど考えているうちに男は親しげに笑顔を浮かべこちらに駆け寄ってくる。

 脱色した茶色というより金色に近い髪の毛、根本は黒く色を抜いてからしばらかくたっているようだった。

 顎の尖った、唇の薄い一重の眉毛が細い男だった。細見で黒のダメージジーンズと赤いスカジャンには虎の刺繍が入っていて首に一眼レフのカメラを下げている。多分年齢は二十代前半といったところだろう。

 優一は一目で彼が例の心霊スポット目当てに来たのだと分かった。

 「あれ?君なんでそんなかっこしてるの?」

 弾んだ声でそう今日春に問いかける男はいかにも面白いものを見つけたと言った風で、


 ――パシャ。


 音と共に何かが光って、優一は眩しさに反射的に目を瞑る。瞼の裏がチカチカとした赤や緑の残像が動いている。

 眼孔が強く圧迫されているような痛みを感じた。

 突然の事で思考が一瞬停止してしまう。

 (!?)

 少し遅れてはっと気がつく。男は首から下げていた一眼レフのカメラで今日春を撮ったのだ。

 「やめて下さい!」

 咄嗟にカメラのレンズを塞ぐが男はそれ以上写真を撮ろうとはしなかった。

 「フィルム下さい!許可もなく撮るなんて!」

 「あっ、それでさぁ事件のこと知らないかなぁ?」

 優一が全てを言い終わる前に男は再びそう問いかけてくる。

 なんて非常識な人間なんだろう。

 やはり外にはろくな人間がいない。

 「あっ、俺こういうものです」

 そう言って、男が取り出した名刺にはジャーナリストと書かれている。

 (金沢徹平)

 心の中で男の名前を呼んでみる。

 どこかで見たことがあるような気がする。

 もしかしたら自分の呼んだ雑誌に彼の描いた記事があったのかもしれない。

 (有名な感じはしないけど)

 それが、徹平に対する優一の率直な印象だった。

 とにかくなんとしても撮られた写真を消させるなりフィルムを奪わないといけなかった。

 (いざとなったら)

 殺してしまおうか――と考える。

 それはとても簡単なことだった。

 朝の散歩。

 今日も肝試しに来たであろう人間を殺してきた今日春の両手にはお気に入りの改造された猫手が血まみれで装着されていて、今日春が持っていきたいと言うのでその暗器は今優一の背負う黒のリュックの中に入っている。

 「しってるよ」

 男にしては高い、声変わりをまだ迎えていないような今日春の声に優一は我に返った。

 「ほんとに!?」

 今日春の言葉に男は目玉をむき出しにして喰いつく。

 「こっち」

 そう言って、今日春は歩き出す。

 「おい!今日春!!」

 正気か?と思う。

 でも今日春が正気である事など一度だってありはしなかった。



 物心ついた時から彼はおかしくて、狂っていてる。




 幼稚園の時だった。

 もちろんその時彼はまだ人も動物も殺したことがない。

 せいぜい虫を殺すぐらいなのだが、けれどその殺し方は普通の子供と比べたら異質なものだった。

 例えば幼稚園の庭や自宅の庭先、土の中に造った巣から這い出る蟻を踏みつぶすことぐらい子供なら誰だってあるだろう。

 他愛無い子供の悪戯。 

 子供故の残酷さがそれをさせるのだと思う。

 でも今日春は違った。

 ある秋の日、黄金色に染まる田んぼの土手で今日春と優一は虫とりをして遊んでいた。

 まだ夏の名残の残る季節、二人とも5歳ぐらいだったと思う。

 空は真っ赤に染まっていて、あと数分もしたら帰らないといけなかったけれど優一の緑色のプラスチックでできた正方形の虫かごは空っぽだった。

 尾の赤い秋になると田んぼなどによく飛んでいるトンボだ。

 一匹のアキアカネが草の上に止まる。今日春はじぃっとその緑がかった大きなトンボの目玉を見つめてそっと手を伸ばすと透明な羽を指先で摘み上げ捕まえる。

 「わぁー!きょうちゃん凄い!上手だね」

 一緒に遊んでいた優一はまだ上手くトンボを捕まえることが出来なかったからそれはもう関心した。

 虫かごは優一しか持っていない。当然捕まえたトンボは優一の籠の中に入るのだと勝手に思い込んでいた。

 だから籠の蓋を開け、今日春の方へと向ける。

 



 けれど、




 「あっ」

 今日春はアキアカネの透明な羽を毟りとったのだ。

 「そんなことしたら駄目だよ!」

 風がぶわっと吹いて今日春が毟った透明な四枚の羽根が宙を舞って消えていった。

 トンボはまだ生きていて、足だけがもがくように動いている。

 子供心にこれ以上は駄目だと思ったのを覚えている。

 何が駄目なのか、大きくなった今はよく分からない。

 言いようもない危機感を感じていた。

 優一は手を伸ばす。

 今思えばそうしたところでもうアキアカネの運命は変わりはしなかっただろう。

 羽をむしられた虫はきっと弱って死ぬか、鳥やカエルに食べられてしまうに違いないのだから。

 「トンボさんが可哀想だよ!」

 反射的に優一の手を避けるように今日春は腕を引きながら心底不思議そうに目を丸くしていた。

 「きょうちゃんはトンボさんが嫌いなの?」

 そう聞いた時、今日春はにこりと笑った。

 あまり感情の起伏がない今日春がこんな風に笑うことは珍しいことで、羽の毟られたアキアカネのことを一瞬忘れてしまう。


 「とんぼさんすきだよ」


 言いながら今日春は手の中の羽のないそれを握りつぶした。




 「だいすき」




 ゆっくりと広げられた手の平の上、アキアカネの頭は取れて、尻尾は折れて、胴は潰れて黄色っぽい液体が今日春の手を汚していた。

 


 「かわいい」

 

 


 手の中パーツがバラバラになったそれを今日春は目を輝かせて眺めている。

 その光景に優一は泣くことも怒ることも忘れてしまった。

 今日春はアキアカネの頭が綺麗だと気に入って、結局優一の虫かごにはトンボの頭だけを入れて帰宅することになる。

 その時は理解できなくて、ただ今日春が嫌いだからそれの命を奪うと言うわけではない事だけは分かった。

 ちゃんと分かったのは小学四年の時、毎日餌をあげ可愛がっていた猫を今日春が殺した時だ。

 親に買ってもらったという、赤茶の毛並の鼻がピンク色の子猫だった。

 今日春はいつも猫と一緒だった。

 学校に連れて行くと言うから毎朝説得するのが大変だったのを覚えている。

 でもある日、突然。

 

 本当に前触れもなく。


 今日春は猫を殺した。



 いつものように迎えに行くと、今日春は自分の部屋で猫を殺していた。

 猫の身体は血で濡れてて赤茶のキレイだった毛並はボロボロになっている。

 それは泡を吹いて、仰向けにされ腹は真っ二つに開かれていた。

 今日春は変わり果てた姿になった愛猫の頭を愛しそうにやさしく、やさしく撫でていた。

 優一はその光景を見てあのアキアカネの時のことを思い出す。そしてようやく分かった。

 今日春は愛しいものほど、愛したものほど、好きなものほど殺してしまうのだと。

 猫は火葬された猫の骨は今日春の宝物になった。

 修学旅行前のあの時、優一が今日春から渡された頭蓋骨はその猫のものだろう。




 しかし、そうだとするなら、今日春は今も殺し続ける知りもしない他人の事を好きだとでも言うのだろうか。

 いや、人に関してはこの条件は当てはまらないのかもしれない。

 だってそうだとしたなら、この町の住人はみんなもう今日春に殺されてしまっているだろう。

 今日春はこの町をこの町の人を愛している。

 彼の頭の仕組みが一体どうなっているかなんて考えるだけ無駄な事なのだ。


 狂っている。


 欠落してしまっている。


 きっと彼は母親の腹の中に何か大事なものを置いてきてしまったに違いない。

 ふと、あの日、ゆりこが言っていた言葉を思い出す。


 ――そんな事関係ない。

 

 ゆりこが言った事が事実だとしても、今日春がああなのは事故みたいなものだ。

 産まれながらに手がない。

 足がない。

 目が見えない。

 耳が聞こえない。

 そういう障害がある事と変わらない。

 それは誰が悪いとかではないのだ。

 原因なんてきっと一生分からないだろう。

 ただ一つ言える事は、残念なことだけれど生まれながらにそういう枷を背負った人間はいるということだ。

 今日春が殺人鬼であることも、生まれながらに背負ってしまった枷だ。

 殺さないと生きていけないなんて悲しすぎるだろう。

 あのゆりこに殺意を覚えたあの瞬間の感覚は今でも鮮烈に優一の中に残っている。

 それは思い出すと叫んで泣きだしそうな感覚で、もしまだ今日春がこの感覚を味わっているのなら、味わったことがあるのならなんだか切ない気分になる。

 そして、もしそういう感覚自体を彼が持ち合わせていないのならそれはとても可哀想な事だと思うのだ。




 歩いていく二人の背中を睨み付けるようにしながら優一は一歩後ろを歩いていた。

 今日春の右側にいるあの男は親しげに今日春に話しかけているものの、今日春は返事すらせずにただ黙々と歩いていた。

 カチャカチャと拘束衣の金属音だけを優一は聞くようにしていた。

 そうしないと、自分がどうにかなってしまいそうだった。

 何故か目の前の男が憎くて仕方ない。

 どうしようもなく腹が立つ。

 それはあの修学旅行の時、ゆりこを襲う黒人に感じたものや、ゆりこに向けたものによく似ていた。

 


 殺意。




 優一は今、目を反らしようもない殺意を覚えていた。

 さっき会ったばかりの人間に何故ここまで憎悪するのか、自分でもよく分からない。

 ただ、どうしようもなく羨ましいと思う。

 なんの根拠も理由もなくあの男は自分の持ってないものを持っているような気がして、羨ましくて仕方ない。

 それが一体何なのか分からない。

 何か、そこまで欲しい物があっただろうか?

 優一が欲しているものは穏やかなこの日常だけで、それはこれからも続く筈の保障された未来だ。

 それ以外何もいらない筈なのに、何故だろう。

 


 (渇く)



 喉がからからなのは何故だろう。

 ただ歩いているだけなのに、全力疾走したように息が上がり呼吸が苦しいのはどうしてなのだろうか。

 二人が向かった先にあるのは、あのホテルと廃園になったつきしろ遊園地だった。

 

 (――ああ、どうしょう)



 泣きだしそうになる。

 分かってしまったのだ。

 あの部外者が持っていて、自分が持っていないものを見つけてしまった。

 思い出してしまった。

 あの男が来なければ、気が付かないでいられたかもしれない。

 比べる対象が無かったら気が付かなかった。

 知らずにいたならきっと幸せだったのに。

 それは、余りにも大きくそしてどうしようもない事実だった。

 幸せだったのに、

 穏やかだったのに、

 ずっとこのままでいたかったのに、

 二人を追う足が動かなくなる。

 今日春の名を呼びたいのに喉の粘膜が貼り付いたみたいに渇いて痛くて声が出なかった。

 視界が滲んで、二人の背中が滲んで、そして見えなくなった。

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