第5話

 いつの間にか蝉の声が止み、夜もカエルの声から秋虫の鳴き声に変わっていた。

 吹き抜ける風には冷たさが混じっていて、田んぼの稲穂は黄金色に染まる。



 秋が訪れていた。



 文化祭の準備で学校は連日賑わっている。優一達のクラスは今年は演劇をやることになって目立つのはあまり好きではないから、優一は大道具の担当になった。

 普段は授業が終わったら今日春と共に直ぐに帰宅する優一だがここ数日、放課後は文化祭の準備に追われていた。その傍らに今日春の姿はない。

 遅くなるからと、ここ数日は今日春は自分より先に帰宅させているのだ。

 そういう場合、一人で帰れない今日春は今日春の母親が車で迎えに来る。

いや、正しくは今日春は『一人で帰れない』のでなく『一人だと中々帰らない』と言うべきか――彼を一人にすると首輪が外れた犬のように、気まぐれな猫のように、どこかにふらりと行ってしまうのだ。だから帰宅には誰の付き添いが必要で、それは優一の役目の一つだった。

 しかし、クラスの出し物の準備のため文化祭間近のこの期間だけ、優一は今日春と帰ることが必然的に少なくなる。

 高校三年最後の文化祭。

 そんな事もこれで終わるのかと思うと少し寂しい気がする。

 

 「出来た!」


 最後の大道具を作り終えた時、完全下校時刻はもう当に過ぎてしまっていた。

 何時の間にか手伝っていた筈の他のクラスメイトの姿は無くなっている。

 昔から、集中しすぎると回りが見えなくなることがあった。

 (下校のアナウンスにも気が付かなかった)

 きっと「先に帰るぞ」くらいの声は掛けられたと思うし、朧げながらそういう記憶もある。

 「はぁ」

 恐らく校門はもう閉まっているだろう。

 だとしたら職員室に寄って開けて貰わなければならない。

 実は完全下校以降居残るのは教師の許可が必要なのだが、もちろんそんな許可とってはいない。

 物凄く怒られると言うことは無いとは思うが注意はされるだろう。

(氷室先生って注意が嫌味っぽいんだよな)

 京子の代わりに優一達のクラスの担任になったのは副担任の氷室先生だった。

 厳しい訳でも怖い訳でもないが、言葉の端々に棘がある時があってその物の言い方が優一は苦手だった。

 勿論この場合悪いのは優一なのだが、嫌味覚悟で職員室に行くのは気が重い。

 確か去年もそんな事があって、でもその時は担任は京子だったから「しょうがないなぁ」の一言で済んでしまっていた。

 しかし、そう軽く笑って許してくれる先生はもういない。

 (みんなどう思ってるんだろ)

 京子の死に、涙する者はもちろん少なくなかった。

 学校は殺人事件である事を伏せている。

 生徒に精神的負荷を与えたくないと言うのが表上の理由で、京子の家族は集団ガス中毒で亡くなったと言うことになっていた。

 ガス漏れでそれに気が付かなくてみんな中毒死した――と。

 あまりに説得力が無いと思うのは自分が真実を知っているからだろう。

 それでも、他殺だろうが事故だろうが死んだと言う事実は変わり無くて、みんな悲しんで先生の死を惜しんだ。

 けれど月日が過ぎて、こうして慌ただしく文化祭の準備などをしていると、ふとその事を忘れてる。

 忘れている事に気が付いてすぐ思い出すし、去年は――といた筈のその姿を思って喪失感を覚えたりもするが、なんだか忘れている時間がどんどんと長くなっているようで怖かった。

 (死ぬってそういう事なんだ)

 人の死は二回あるのだと昔どこかで聞いた事がある。

 一回目は肉体の死。

 呼吸が止まり、鼓動が止まり、冷たくなって瞼を開けない。

 二回目はその死んだ人の事を忘れられていくこと。

 (先生は今も死に続けている)

 だってもう、



 (声が――)



 声が思い出せないでいる。

 先生はどんな声でしゃべっていただろう。

 高かったか、それとも女性にしては低かっただろうか――こうやって忘れていくのだと感じると恐怖さえ覚えた。

 どうする事もできない。

 少しでも覚えていようと思っているのに日々忘れていく。

 自分の無力さを痛感した。

 犯人捜しもできなければ、この加速する死を止めることもできないのだ。

 俯いて廊下を歩いく。ただ足元だけを見ていた。

 タン――っと何かにぶつかって身体のバランスが崩れた。 

 「きゃぁ!」

 ぶつかるのと同時に聞こえたのは女の子の声だ。

 「すいませっ!」

 反射でそう謝罪して慌てて顔を上げる。

 「石井さん!」

 尻もちをつくように廊下に座り込むゆりこの姿がそこにはあった。

 「ご、ごめん!」

 慌てて手を引き立ち上がらせてやる。

 「びっくりしたぁー優一くんも残ってたんだね」

 ゆりこは屈託なく笑いながらそう言った。

 「うん。下校時間になったの気が付かなくて、今から職員室に怒られに行くところ」

 切り取られて無くなってしまったかのようだ。

 あんなに酷い事をされて、残酷な光景を見て、でも彼女は変わっていない。

 むしろ強くなった気さえする。

 容姿は昔の細く折れてしまいそうな華奢な体ときから、少し心なしかふくよかになったようだ。

 太ったとかは思わなかった。

 元々ゆりこは痩せすぎている印象があったから丁度いいんじゃないかと思う。

 彼女は前を向いて進んでいるのだと実感させられる。

 「石井さんは凄いな」

 「え?」

 聞き返すようなゆりこの声に、自分が胸の中に湧き上がった言葉を声として発してしまったようで優一は気が付いて気恥ずかしくなる。今、ものすごく自分の頬が熱く感じるからきっと今の自分は顔が真っ赤になっているだろう。

 「やっぱり、女の子はいつかお母さんになるから強いんだなぁって――思って」

 自分でも一体何を言っているのだろうと思いながら、あたふたと言い訳をする優一の事をゆりこがクスクスと小さく笑った。

 それが優一の様子に対して笑っているのか確認することができなかった。

 だって、恥ずかしくて顔を上げることが出来なかったのだ。

 「職員室に行かなくても職員玄関なら開いてるから、靴持って出てっちゃおう?」

 悪戯っぽくゆりこがそう言ったので、二人はそっと、外履きを持って職員玄関から外へ出た。

 太陽は沈んでいて、空に赤から青のグラデーションがかかっている。

 だいぶ暗くなってしまったので、優一はゆりこを家まで送ることにした。

 京子を殺した犯人はまだ捕まっていない。

 用心に越したことはないだろう。

 「優一くん、最近きょうちゃんと一緒に帰ってないんだね」

 ゆりこの家は京子の家の隣だった。

 あの日と同じ筈の坂道は、空の色が違うだけでまるで別もののように優一の目に映っていた。

 そう思うのは本当に空の色が違うからだけなのだろうか。

 季節が変わったから、肌に触れる温度が違うから、聞こえる音が、空気の匂いが違うから、

 (隣に今日春がいないから)

 空の端に見える月は満月だった。

 「ここでいいよ」

 坂を上りきる前にゆりこがそう言った。

 「あの修学旅行の日ね。私、京子先生に呼ばれてたの」

 不意にそうゆりこが語りだす。

 一体何故、このタイミングでそんな事を言い出したのか優一には分からなかった。

 「京子ちゃんはね。昔からよく遊んでくれる良いお姉さんだった。私は京子ちゃんが大好きで、京子ちゃんみたいになりたかったの。だから――」

 東京を案内してあげると言われていたのだと言う。

 京子先生は教師として戻ってくるまで東京に上京していたから地理に詳しかったらしい。

 「大人の女になれる場所に連れていってあげる。みんなには秘密よ」

 ゆりこはそう言われたそうだ。

 憧れの京子からの秘密と言う言葉になんだかすごくドキドキした。

 最近失恋して自信を無くしていたゆりこだから、何かのきっかが欲しくて、その誘いに二つ返事をしたのだった。

 自分を変えたいと。

 そして、あの日、言われた待ち合わせの店へと向かう途中に黒人の男二人に拉致された。

 彼らはまるでゆりこが初めかからそこに来ると分かっているかのような態度だった。

 自由を奪われ、下着を脱がされ、犯された。


 痛みと恐怖で頭がおかしくなりそうになりながら、

 「きょうこって言ってるのだけ分かった。今思えば『京子には感謝しなくちゃな』って言ってたんだと思う。英語だったし、私もパニック状態だったから本当はどうなのかよく分からないけど」

 ゆりこは笑顔さえ浮かべていた。

 けれどその笑みを見れば見るほど冷たい気持ちになるのは何故なのだろうか。

 何か言わなければ――と思う。

 これ以上この話を聞きたくなはなかったから、自分の言葉で遮らなければそう思うのに――でも、どんな言葉を掛ければいいのかよく分からない。

 「この街にはね。そういう伝統が昔からあるんだって。ホラ、みんな街から出たがらないから――血が濃くなりすぎないように外に出た時に外の人とセックスして子作りするの、知ってる?きょうちゃんのお母さんもそうやってきょうちゃんを生んだんだよ」

 絵本でも読むかのように、穏やかに優しく彼女は残酷な現実を語っていく。

 (悪夢みたいだ)

 いっそ夢ならどんなにいいかと思うのだ。

 「きっと種が悪かったんだね」

 やめてくれ、

 もう黙ってくれ、



 「だからあんなキ○ガイが産まれちゃった――」

 「黙れっ!」


 気が付いたら、



 ゆりこの首を





 絞めていた。


 頭の中が真っ赤で、腹の底でどろどろした黒いものが渦巻いていて、高い耳鳴りがずっと聞こえている。

 「これ、私の子供だって。京子ちゃんに相談したら「よかったね」って笑ってた。だから――」

 スカートのポケットからは見覚えのあるエコー写真が現れる。

 殺害現場で優一が拾った写真と同じもののように見えた。

 沢山の「もしかして」が頭の中に浮かぶ。

 その「もしかして」を優一は浮かんだ端から否定した。

 そんなはずない。

 そんなはずない。

 そんなはずない。

 でも「もしかして」には根拠があり、「そんなはずない」には根拠はなかった。

 否定はただの優一の希望に過ぎない。

 (でも、だからって!)

 誰か、例えば漫画や小説の出てくる名探偵が出てきて、直ぐにでも目の前の現実を否定してくれないだろうか。

 華麗な謎解きで、もっと凶悪で醜く誰からも憎まれる真犯人を引っ張り出してきてはくれないだろうか。

 ゆりこの目元に涙が浮かぶ。

 それは首を絞められた息苦しさから来るものなのかそれとも――どちらなのかは優一には分からない。

 「私、お母さんになんて、なりたくないよ……」

 彼女は強くなんてなかった。

 凄くなんてなかった。

 石井ゆりこは、ただの見た目のままの弱い少女だった。

 首に絡めた指にそれ以上力を込めることが出来ずに優一はそっと手を離す。

 涙をためて、無理やり笑顔を作ってから彼女はこう言った。

 「優一くんサヨナラ!」

 それから背中を向けて坂を掛けて上がっていく。

 坂の頂上の丁度真上に、満月があって彼女はまるでそこに向かって走っているようだ。

 丸く白い月は、この辛い現実からの出口のように見えて、追いかけることが出来ない。

 追いかけなければ、その手を握って引き留めてやらなければ彼女は何処かへ消えてしまいそうだ――そんな漠然とした予感のような妄想があった癖に、優一の身体は金縛りにあったかのように動かなかったのだ。

 


 翌朝、いつものように早朝の散歩をする。

 月白商店街に行くと斉藤のおじさんがもう店を開けていた。

 おじさんの今日の仕事は胎児の解体だそうだ。

 解体した肉を粉末にしてカプセルに詰めて売ると高く売れるらしい。

 不老長寿の漢方の一種だとおじさんは言っていた。

 「特に黒い色の奴はね。黄色や白よりよく効くって評判なんだ」

 『何の』なんて事は聞かない。

 聞きたくも無かった。

 学校に登校すると、ゆりこの姿は無く、無断欠席などしたこのない彼女にしては珍しくその日は一日学校に来なかった。

 多分、彼女はもう二度とここには来ない。

 もしかしたらこの街にもう彼女はいないのかもしれない。

 昨日、あの坂を駆け上がりそのままあの、月の出口からここではない何処かへ、ゆりこは消えてしまったんじゃないだろうか。

 「ゆりちゃんいないね」

 今日春が空いたゆりこの席を見つめて言った。

 窓の外は今にも雨が降りそうな曇り空、雨はどうやら夜通し降るらしい。

 きっと今夜は月は見られない。

 だから後を追う事もできないだろう。



 「悲しいね」



 ゆりこの事もいつか忘れるのだろうか。

 まだ指先に残っている。

 細い首を締め付ける感覚。

 まだ声を覚えているけれど、きっと少しずつどんなに気を付けても零れていってしまう記憶の中で、京子先生やゆりこが優一の中で完全に死んでしまうのは一体何時なのだろう。

 


 「今日春」

 声が震えていた。

 こんなこと、今日春に頼んだところで無理だろう。

 でも今日春以外に頼めない。

 むしろ、今日春だけでいい。

 今日春だけが

 



 「俺が死んでも、忘れないでくれ」




 今日春にだけ欠片でも覚えていてもらえたなら――…。

 



 「忘れないよ」




 泣きだしそうな顔。

 それを無理やり笑みに変えたようなその表情は酷く見覚えがある。




 「他のこと全部忘れても優一の事だけは忘れない」




 真っ暗な絶望的な暗闇の中で、今日春のその言葉だけが月の光のように優しかった。

 小さな頃、暗闇が怖くてよく月を探した。

 月の白い光は真っ暗な空でそれを見つけるとそれだけでいつも安堵していた。

 その時の感覚にそれは酷く似ている。

 その言葉が例え嘘でもそれだけで、ちゃんと呼吸をして生きていけるような気がするから不思議なものだ。

 

 「約束だぞ?」


 指切りげんまんを今日春が歌う。

 今日春は拘束衣を着ているから小指を絡める事は出来なかったけれど、子供じみたその歌がなんだかとても嬉しくて、最後は優一も一緒になって歌ってしまっていた。

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