第4話
修学旅行が終わり三カ月、季節は夏。
夜はカエル、昼は蝉が空間を埋め尽くすように隙間なく鳴いていた。
いつもと同じ教室、いつもと同じクラスメイトの顔。
けれどそこにいつもとは違うものがあった。
「京子先生はご病気でお休みです」
そう言いに来たのは副担任の氷室洋介先生だった。
眼鏡をかけた短髪の四十後半の彼は物静かで飄々としていて掴みどころがない。当然、生徒達の人気的には明るく話しかけやすい京子の方がいい。
別に氷室先生が嫌いではないが、当たり前としてる事が急に変わると違和感を覚えてしまう。
(身体が丈夫なことでも有名なあの京子先生でも人の子だから病気ぐらいするだろう)
その時はその程度にしか思っていなかった。
しかし、次の日もその次の日も、京子来ない。
結局、一週間彼女は学校に来なかった。
優一はなんだか妙な胸騒ぎがずっとあった。
それは覚えのある感覚だ。
修学旅行でゆりこを原宿で見た時もこんな感じがした。
悪い予感がしていて、でも行動することができなかった。
杞憂だと自分に言い聞かせて、でも結局自体は最悪な結末を迎えてしまった。
ゆりこはあの時の事は何も言わなかった。
その後も何も態度に変化はない。
むしろ全て優一の夢か何かだったのではないかと思うぐらい彼女はちゃんと毎日学校に来ているしちゃんと笑っている。
たったそれだけの事だけれど、優一は救われた気分になった。
結局自分は何一つできていなくて彼女の役にはたてなかったけれど、辛い思いをしてないのなら少しだけ罪悪感は薄れる。
でも、だからと言ってもう後悔するのは嫌だった。
思い込みだと勝手に自己完結して最悪なことが起こるぐらいなら、結果として何も起らなくても、行動する事は無駄ではない筈だ。
だから優一は学校の帰りに京子の家に寄ことにした。
蝉が鳴く中坂道を今日春と二人で上がる。
この天辺の赤茶の塗炭の屋根の平家が彼女の実家だ。
京子はここで家族と一緒に住んでいる。
子供の頃、何度か遊びに来たそこは子供の頃の記憶より古びて、あの頃真っ赤に見えていた屋根の色も雨と日の光で大分色褪せていた。
呼び鈴を押して見るが壊れているのか鳴っている様子がない。
「こんにはー」
仕方ないので扉を開け、そう声をかけた。
木とガラスでできた引き戸は立てつけが悪くなってしまったのか開けるのに少し力が必要だった。
ガタガタと音を立てながら扉が外れるんじゃないかと内心心配しながら開けると湿っぽい空気が出口を求めるように一気に流れてきた。
まるで何日も家を留守にした時のような空気の匂。
人の気配を感じない。
確かこの家には京子の他に京子のお母さんとお父さん、それに妹が一人いた筈なのだが。
留守なのだろうか――そう思ったけれど胸の中のざわざわした感覚が消えなくて、悪いと思ったが勝手に家に上がることにした。
「お邪魔します」
そう言ってしまうのは多分反射だと思う。
靴を抜いて家に上がる優一の後に今日春も続いて歩く。
玄関を入って廊下の突き当りの部屋が居間で、みんなが集まる場所だった。
確か京子のご両親も二人揃って教師をしていたが、今はもう定年しているから本来なら最低でも二人はこの家に確実にいる筈だった。
けれどこの家からは人の気配を感じない。
留守――と言う感じも違う気がするのは何故だろう。
よく似ている感覚は朝の、自宅の様子だ。
そこに人と言う物体はあるのに、物音がしない。
感覚として人は居る感じがするのに、動いている感じがしないのだ。
眠っているのだろうか?
時刻は四時半。昼寝にしては長すぎるように思う。
それに家の中は薄暗くて確かに外よりは涼しいかもしれないけれど冷房がついていないから少し蒸し暑い。それは、こうして廊下を歩いているだけでも薄っすらと汗をかくほどの温度で、優一ならここに長時間居るのはちょっと我慢できない。
薄暗い廊下の突き当りにある居間まで何故か酷く長い道のりのように感じた。
ようやく端までたどり着いて襖を開ける。
「――!?」
まず酷い悪臭に優一は顔を顰めた。
肉の腐ったような匂。
それから細めた瞳の先の光景に思わず絶句する。
人が横たわっていた。
一人目。
白髪交じりの少しおでこが後退した男の人はうつ伏せになって、まるで助けを求めるように右手を前に出し絶命していた。
二人目。
同じく白髪交じりのこちらは女性。
腹を押さえて丸くなったまま顔を顰めて苦しそうな顔で死んでいた。
三人目。
若い女性、髪型はショートカットで二人目の死体の背中に覆いかぶさるように死んでいた。
まるで、守るように。
その背中は血まみれで滅多刺しにされていた。
四人目。
同じく若い女性。
眼球を見開いて信じられないというような表情のまま壁にもたれ掛るようにして膝を立てて座ったまま死んでいた。
両手で腹を押さえて、その手は真っ赤に染まっている。
死体はもう変色し始めていて、優一の知ってる人達とは別人のように見えた。
いや別人だと思いたかったから、脳が認識しないのかもしれない。
でも残念だけど、認めたくないけれど、それは京子とその家族の死体だった。
思わず振り返る。
その瞬間、上目使いで優一を見上げている今日春と視線が合った。
真っ直ぐと見つめてくるその瞳に思わず居心地の悪さを感じるのは―……。
「俺じゃない」
優一の考えを見透かしたように今日春が言う。
「――そんな事」
「思ってない」そう言いきる事ができなかった。
優一の頭の中で、今日春と殺人はイコールのものだったから、この家族の死体を見てすぐさま今日春の仕業だと思ってしまったのだ。
今日春は町の人を殺したりはしない。
それは『今は』であって永延ではない。
殺さない理由なんてよく分からない。
今の今まで誰も殺されていない事の方が奇跡に近い程の彼は生粋の殺人鬼なのだから。
「俺はもう町の人は殺さない」
そう言った今日春の顔が少し泣きそうに見えたのは気のせいだったかもしれない。
『もう』と言うことはやはり行方不明の町長を殺したのは今日春だったと言うことだろう。
一体彼が何を思い、何を感じ、そうしているのかは分からない。
ただ今日春は昔から嘘はついた事がなくて、今目の前にある死体は彼が作り出したものではないと言うのは信じる事にした。
(みんながどう思うかは分からないけど)
警察に連絡をする――と言っても、街に一つだけある交番に言うだけの事だ。
一家殺害事件とかできっとまたたくさんの『外』の人が来るのだろう。
そう思っていたけれど――。
「黙祷」
校長先生の声と共に全校生徒は目を閉じ一分間の黙祷をする。
もちろん京子のための祈りだ。
てっきりまた町が騒がしくなるのだと思っていたのに、予想を反して時間は穏やかに過ぎていった。
京子を殺した犯人は捕まっていない。
京子達家族はあの自分と今日春が死体を見つけた日から一週間前に殺されていたらしい。
学校に来なかったのは病気でもなんでもなく単純に来れなかったからで、鍵をかける習慣のないこの街で、誰かが早く訪ねていたなら発見はもっと早かったのではないだろうか?と思う。
けれど多分、誰かが見つけたとしてもきっと見なかった事にするだろう。
日常が壊れる事をこの町の人達は何より嫌うのだ。
他の先生達が京子の無断欠勤を放っておいて生徒に隠していたのも、家族全員殺されると言う大きな事件が起こったわりに警察の捜査が未だちゃんと行われていないのもそういう理由があるのかもしれない。
多分、犯人は捕まる事はないだろう。
もしかしたらみんな今日春の仕業だからと思っているのかもしれない。
町の人は今日春の殺人は災害と同じ物と考えている。
だからきっと『仕方ないことだ』と諦めているだろう。
でも、実際には彼は殺してないのだ。
彼は確かに罪深い。
殺さないと生きていけないのだから存在そのものが罪のようなものだ。
けれど今日春は今回の事に関しては殺していない。
やっていないのにそう思われるのは不愉快だった。
今日春は何とも思っていないようだが、優一が許せなかった。
それにずっと何かもやもやとしたものがある。どうしてそう思うのかは分からないけれど、このままではいけないと言うことだけは分かった。
学校帰りに再び今日春と二人で京子の家へと向かう。立ち入り禁止のテープを潜り殺害現場の居間へと向かった。
死体は片づけられていて、血の痕だけが生々しく残っている。
(こんな所に来て一体どうしようと言うんだ)
自分でも分からなかった。
犯人捜しをするつもりなんて勿論ない。でも京子を殺したのが今日春の仕業なのだと暗黙の了解のようになっているのは嫌なのだ。
「先生死んじゃったんだね」
ぽつりと寂しそうに投げ出された今日春の言葉に優一はその時初めて実感した。
死が日常すぎて、だって朝目覚めたら人間の臓器や腕があるなんてざらなことで、血の匂も死体もあまりに見慣れてしまっているから、死ぬって事が日常すぎて実感できていなかった。
「ふっ――」
死んだんだ。
そう実感したとたん喉がちりちりして鼻の奥から痛みを感じた。
目のまわりが熱くなって、それからぼやけて頬に伝う濡れた感触に自分が泣いているのだとその時初めて気がついた。
膝ががくがくとして思わず崩れ落ちる。
嗚咽が漏れた。
みっともなくて、その場にうずくまるように顔を隠すと背中に重みを感じた。
人の体温。
視線だけを上げれば、視界に入ったのは今日春の膝で、どうやら今日春が自分の背中に覆いかぶさるように乗っかっているようだった。
抱き締めているつもりなのだろうか?
(そうか、拘束衣で手が使えないんだ)
今日春なりにそれは慰めの行動らしい。
息遣いが聞こえて、今日春が呼吸する度に重みが微かに変わるのが分かった。
「悲しいね」
泣くわけでも怒るわけでもなく今日春はそれだけ言うとそれ以上は何も喋らなかった。
ただ、その重さが、暖かさが、呼吸の音が、優しくて、余計になんだか泣けてきてしまう。
死ぬとそういうものが全部無くなってしまうのだと深く実感してしまって。
ひとしきり泣いて、気分が落ち着いた時には日は傾き初めていた。
夕方のオレンジ色の光が窓から差し込む。
犯人捜しなんてするつもりは無かった。
でも、探さないといけない気がする。
人を殺す事は罪深いのだと、人が死ぬ事はとても大きな事なのだと思ったのだ。
「とりあえず帰るか」
とにかく、今日は帰ろうと立ち上がった時だった。
「これ――なんだ?」
黒い紙が一枚、落ちているのを見つけて優一は拾い上げた。
「写真?」
それはモノクロで映し出された写真だった。
ただ普通の写真とはかなり違う感じだ。
なんと言うか、レントゲンみたいな感じで
「赤ちゃんの写真だね」
優一の手元を覗き込みながら今日春が言った。
(誰か妊娠でもしてたのか?)
京子が?京子の妹が?彼女のお母さんって事は年齢的に考えにくい。
京子が殺された事とこの写真は何か関係があるのだろうか?
例えば京子に恋人が居て、子供が出来て産みたいと言ったら殺された――とかなんて話はいかにもチープなテレビドラマでありそうな展開だ。
この写真が誰のものなのかはきっと病院に行けば分かるだろう。
「おなかへった」
とりあいず今日は帰ることにする。
人を殺す事は罪深くて、死は重たくて悲しい事だ。
今日春はどう思ってるかは分からないけれど、もし京子を殺した犯人が街の人ならして欲しくないと思った。
人を殺すと言うことは、とても重くて、きっと普通の精神では耐え切れない気がした。
(だってあの日からずっと心が重たい)
ゆりこを助ける為に今日春の拘束を解いたあの日から、ずっと罪の意識がある。
直接手にかけていないのにこうなのだから直接人を殺したならきっと優一なら普通ではいられない。
いや、もう普通ではないのだ。
だから人が死ぬことへの感覚が鈍くなっている。
でも、これ以上心が麻痺するのは嫌だった。
もしかしたら街の人はみんなもう麻痺してるのかもしれないけれど、それはとても悲しい事のように思うのだ。
だから、優一は犯人を突き止めたいと思った。
何ができると言うわけではない。
この様子では犯人が分かったところできっと大人は誰も動きはしないだろう。
もし、万が一罪が認められ犯人が罰を受けたとしても京子達は帰っては来ないのだから。
それでも――そう決意するとずっとあったもやもやした不快感は消えていた。
真実を知りたいと思った。
例えそれが残酷な結末だったとしても。
次の日の、学校が終わってから病院に向かった。
『月白総合病院』は街に唯一の病院だ。
みんなここで生まれて、そしてここで死んでいく人もいる。
悲しい事だけれど、穏やかに死ねるのならそれはとても幸せなことなのだ。
家族に見守られ、あるいは惜しまれて死ぬ事はきっと悲しいけれど嬉しい。
どう考えてても、殺意をもって誰かに殺されるよりそれは幸福なことだろう。
ガラスの自動ドアを潜ると直ぐに病院特融の消毒の匂がした。
白いリノリウムの床に白い壁紙。
冷房がよく効いていて寒いぐらいだった。
「あら、ゆーちゃんにきょうちゃんいらっしゃい」
そう声を掛けてきたのは受付に丁度いた婦長の中島さんだった。
中島さんは薄いピンクのナース服の上に紺色の薄手のカーディガンを羽織っていた。
「どうしたの?具合でも悪くなった?」
まるで幼児にでも問いかけるように優しい口調でそう聞いてくる彼女に優一は鞄からあの写真を取り出して見せた。
「この写真の持ち主を探してるんです。拾ったんですけど、大切なものだろうし返したくて」
勿論『どこで拾った』か言わない。
「エコー写真ね」
中島さんはそう言って写真を覗き込んだ。
正直、そう聞けばすぐに分かることだと思っていた。
けれど、
「分かったわ。じゃあ預かるわね」
そう言って、写真を持って行こうとする。
「――って、あの!?それが誰のか分かるんですか?」
「ちょっと見ただけじゃ何とも言えないんだけど――でも、分かったとしても教えてあげられないわ。個人情報だし、とってもプライベートなことだもの」
中島さんは「わざわざありがとうね」と言って今日春と優一に一個づつ飴玉を寄越してそのまま受付の奥へと消えてしまった。
よくよく考えてみればそれは当たり前の事で、なんの捜査権限もないただの高校生に患者の情報を簡単に漏らす筈もない。
現実としてこんな探偵の真似事みたいなこと上手くいくわけ無かったのだ。
「優一、凹んでる?」
帰り道、大きなため息を吐き出すと今日春が小首を傾げて問いかけてくる。
「少し、自分の馬鹿さに」
完全に手がかりは無くなった。
これからどうすればいいのだろう――歩きながらそう考えていると、
「もういいじゃん」
今日春が立ち止りそう言った。
「よくないだろ。お前は疑われたままし、俺は気持ちが悪い」
本当の事を知りたいのだ。
引き下がりたくない。
「別に疑われたままでいい。俺は確かに人を殺す」
『人を殺す』そう今日春本人の口から聞くのは初めてのことだった。
「だからもうよそう?俺のせいでいい」
夕日が丁度、今日春の背後にあって太陽を背負うように立つ今日春の身体の淵だけまるで電気でも帯びているかのようにうっすらと光っていた。
色の濃い影が顔にかかっていて表情はよく分からない。
ただ、声だけが妙に痛々しくて、なんだか泣きそうだと思った。
今日春が泣いたところなんて見たこともない筈なのに、そう思うのは不思議な感じがした。
納得はしていない。
けれど手がかりは結局あれ以上何もなくて、どうする事もできずにただ日々は流れていくのだった。
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