第3話

 五月、修学旅行まであと三日と迫っている。

 優一は旅行の荷物を準備していた。

 優一の学校は制服があるので、着替えは寝間着と下着ぐらいなものだが、あの今日春が何をして服を汚すか分からないため自分の分と今日春の分の服を用意しなければならない。

 新品の下着と寝間着、拘束衣も一応予備を入れておかなければ。

 あとはいざと言う時、色々使いようがあるタオル、それにビニール袋――…。

 不幸中の幸いと言うべきか荷物は郵送で先にホテルに送れる。

 こんな大荷物を手で持っていくのは不可能だ。ましてやそれに合せて今日春の面倒も見るなんて……。

 「あらあら、大荷物ね」

 広げられた荷物の量を見て母はそう笑いながら言う。

 「だって、今日春の分も持っていかないと――おばさんも用意してるとは思うけど備えあれば――って言うからさ」

 そうね。と母は優しく笑いながら荷物の準備を手伝ってくれた。

 「あなたにとってきょーちゃんは弟みたいなものだものね」

 支度をしながらそう言う母の言葉に優一は不思議な気分になる。

 そんなこと考えてもいなかった。

 物心がついた時から、優一は今日春の面倒を見ていてそれが当たり前のように今まで過ごしていたから自分が彼を”弟”と思っているのか、自分の事なのによく分からない。

 「あえて言うなら手のかかるペットかな」

 一番近い感覚のものはそれだった。

 しかし、感覚が一番近いだけであって、その言葉もやはり自分の中でしっくりきていない。

 「ふふふっ……なぁにそれ?きょうちゃんが聞いたら怒るわよ」

 母が笑う。

 改めて考えても自分と今日春の関係を今の優一は上手く言い表すことができない。

 友達――とは違うだろう。

 感覚は家族に近いものがあるけれど、自分がやってやらなくてはいけないとそんな気分になるのだ。

 だって今日春は人を殺すこと以外なにもできない。

 母はそんなことを言ったら怒るなんて言ったけど、今日春が怒ることなんてきっと一生ないと思う。

 嬉しそうなところは見たことがある。

 人を殺した後、うっすらと笑みを浮かべることがあるからきっと今日春は楽しくて嬉しいのだと思う。

 でも悲しそうとか怒るとかそういうのを見たことがない。

 そもそも、笑っていたって本当に喜んでいるのか優一にはよく分からない。

 今日春は言うならば、生まれて間もない赤ん坊のような人間だ。

 赤ん坊は何かを見て笑みを浮かべることがあるが、それは楽しいのではなく顔の痙攣で起こっているもので感情が動かされたからではない。

 今日春の浮かべる笑みもそれと変わらないのではないか。

 だから自分が見てやらなくてはいけないと思うのかもしれない。

 笑うことさえ自分の意思ではないかもしれない今日春の面倒を自分がみてやらなくていけないと。

 (可哀想だと思っているんだろうか)

 これは同情からくるものなのか。

 よく分からない。

 この感情は一体なんて名前のものだろう。





 修学旅行当日。

 バスで東京へと向う。

 大人たちはみな笑顔で折角だから楽しんでこいと言い、子供たちは相変わらず街から離れることを不安がっていた。

 それでもバスに乗り込んでしまえば多少緊張が薄れ、数時間走り出すと車内は和やかな雰囲気になっていた。

 「はい、きょうちゃんあーん」

 ゆりこがそう言うと優一の隣で拘束衣を着て座る今日春にスティック状のチョコ菓子を差し出す。

 あの後、優一はゆりことどこか気まずくなったらどうしようと思っていたがそんなことはどうやら杞憂だったようで、むしろあの日以降彼女は積極的に今日春や自分に話しかけて来るようになった。

 会話は本当に日常のよくある世間話だけれど、今日春はどうやら彼女のことは気に入っているようで、ゆりこの事を「ゆりちゃん」と呼んでは慕っている。なにせ、バスの席順も通路を挟んだ横にゆりこに座って欲しいと強請るほどだ。

 少し椅子から乗り出すようにしているゆりこに、今日春も少し通路側に身体を傾ける。それから彼は子供のように口を開けると差し出される菓子を歯で噛み切った。

 ぽきっと軽い音と菓子を噛み砕く音が窓側の優一にも聞こえていた。

 「おいしい?」

 問いかけに今日春はこくりと頷く。

 「あまい」

 それからまた寄こせと言わんばかりに口を開ける。

 「あっ!じゃあ僕のもあげる」

 「私のも!」

 二人のやりとりを見て、他のクラスメイトも名乗り出ては今日春に食べ物を与える。それはまるで動物に餌でもやってるかのようだった。

 みんな面白がって今日春に菓子を与えていた。

 (あまり食べさせたら昼食の時食べなくなるからそろそろ)

 止めようかと思った時だった。

 「ゆーいち」

 そう今日春に名を呼ばれる。

 差し出された菓子にそっぽ向くように今日春は真っ黒な瞳で優一の方を真っ直ぐと見ていた。

 口の端にはチョコレートが付いていてそれはまるで――。

 「お前、人食ったみたいな顔になってるぞ」

 ウェットティッシュで口の端のチョコを拭きとってやる。

 歴代のシリアルキラーには食人の趣味のある者も少なくなった。

 そう言えば今日春は人の肉を食べたことがあるのだろうか?正直食べていても何の不思議もない。彼は以外にも好き嫌いがない――と言うことは人間の肉だって、

 「俺は人は殺すけど食べないよ?」

 優一の思考を遮るように告げられた今日春の言葉。

 「へぇ、そうなんだ」

 その発言に少なからず優一は驚いている。

 彼のことならなんだって知っていると思っていた。

 自分は彼の一番の理解者だと、下手をしたら彼の父や母よりも自分の方が彼のことを知っているのではないかと思っていたのだ。

 「知らなかった」

 まだ知らないことがあったなんて以外だ。

 「うん。おいしくないし、血って飲み過ぎるとゲロが出るんだよ」

 「おいしくないって知ってるってことは食べたんじゃないか」

 「食べてないよごっくんしてないもん」

 どうやら飲み込むまではしないまでも口の中に入れたことはあるらしい。

 そしてどうやら血液は飲んだことがあるようだ。

 「あっ!聞いたことあるよー血液には吐瀉作用があるんだって!だからきょうちゃんは吐いちゃったんだね」

 二人の会話を聞いていたゆりこがニコニコと笑いながら言った。

 「としゃ…?それよりゆーいち。おせんべい」

 聞き慣れない言葉に小首を傾げながらもすぐにどうでもよくなったのか、今日春は優一の方を向いて口を大きくあけた。

 「甘いものばっかり食べたからしょっぱいものが食べたくなちゃったんだね」

 ゆりこがそう言って笑った。

 雛のように口を大きくあけて待機する今日春のために優一は手持ちの荷物からせんべいを一枚出し、一口サイズに砕いてからその口に放りこんでやる。

 「昼食もあるんだから、これ一枚だけだぞ」

 そう今日春に言えば「優一くんってきょうちゃんのお母さんみたい」と誰かが言い、そして車内は暖かい笑い声に包まれた。

 三日前は母に今日春は優一にとって弟のようだと言われ、今、母親のように世話をやいていると笑われた。

 実際、優一は今日春の母親と同じもしくはそれ以上彼の面倒をみているだろう。

 それを苦痛に思ったことは一度も無いし、むしろ当たり前のことだと思っていたけれどよく考えたたらおかしなことなのかもしれない。

 ただ家が隣で同じ年なだけの関係なのに不思議だな――と思う。

 自分のことなのに、まるで他人事のような感想を抱いた。

 (やっぱり家族に近いのかな?)

 でも、知らないこともあった。

 家族に限りなく近くて、生まれてから今までずっと一緒にいたのに自分は今日春が人の肉を口に入れたことがあるなんて知らなかった。

 そう言えば、彼が人を殺すところを優一は見たことがないのだ。

 ただ漠然と殺しているのだろうと思っているだけで、殺害現場に居合わせたことはない。

 (なんだか寂しいな)

 ずっと全部知ってると思っていたのに、知らない部分があったと自覚してしまうと、なんだか寂しさを覚えた。

 だからと言って、別に今日春が人を殺す現場を見たいだなんて思わないが。

 (俺まで殺されかねないからな)

 結局、彼が獲物とそうじゃないものを、どう見分けているかなんて分からない。

 彼が人を殺す時、その場にいる全てのものを殺さないという保証がどこにもないからだ。

 (俺が死んだら今日春の面倒を一体誰がみるって言うんだ)

 結局、自分達の関係性とかはよく分からない。

 きっと答えなんて出ないだろう。

 でも、自分が面倒をみてやらなくては思うのだ。

 だから優一はたかだか好奇心で死ぬわけにはいなかい。

 このシリアルキラーはきっと一人では生きていけない。 

 だって彼は殺すこと以外何もできない人間だから。

 (誰かが見ててやらないと、食事も忘れて人殺しばかりしてしまう)

 今日春の赤く小さな舌にせんべいの欠片を載せてやりながら優一は思った。



 

 昼食をとり、お台場や船の科学館などを見学してから都内のホテルに着く。

 夕食までは自由行動。

 あまり外には出たくないのだが、せっかくだからと言う引率の先生達に押し負ける形で優一と今日春は原宿に来ていた。

 東京はあまりにもいろんな人間に溢れすぎているせいか、拘束衣姿で電車に乗り込む今日春を不思議がる人間は意外にもいなかったのが幸いだったかもしれない。

 原宿に着いてしまえば、むしろそんな今日春の姿はそういうファッションの一種のようになってしまい虫の行列のように隙間なく人が詰まる竹下通りでもその姿が執拗以上に目立つことはなかった。

 雑音。

 人の話し声と時折、肌の黒い外人が何か言いながら話しかけてくる。

 漠然と相手にしては駄目なのだろうなぁと思い、聞こえないフリをして歩く。

 漫画の中のキャラクターが着ていそうな奇抜な服やアイドルの写真、俗にゴスロリと言われる黒いレースたっぷりの服やパンク、ロック、銀色の鋲や黒いエナメル。厚底の靴。どれも街には無いものばかりそこには並んでいた。

 途中、クレープが食べたいと言った今日春に生クリームとバナナとチョコのクレープを買う。

 今日春は三口ぐらいそれを食べて「もういらない」と首を振ったので結局残りは優一が食べることになった。

 舌にこびりつくような甘い生クリームと、極端にカカオの匂いがするチョコソース。唯一の救いのようなバナナの酸味は入ってたバナナの量が少なかったのか最初の方でなくなってしまって後は頭が痛くなりそうな甘さとの対決になってしまった。

 それでもなんとか胃に詰め込んで、一通り人波に流されるように竹下通りを歩いた頃、太陽は沈んでいた。

 もうホテルに帰って夕食をとらないといけない。

 やっぱり東京観光なんて疲れるだけでなにもいいことがない。そう優一が溜息を吐き出した時だった。

 「あっ」

 今日春が何かを見つけたかのように不意に言葉を漏らした。

 どうしたのだろうとその視線の先を見る。

 表参道から道を渡って向こう側の方。ゆりこの姿があった。

 もう帰らなければいけないと言うのに駅とは逆方向へ彼女は向かっている。声をかけようかと思ったその瞬間にその姿は人混みに紛れて消えてしまう。

 追いかけようかと思って直ぐにその考えを改める。

 今日春を理由に一回は断った癖に今更偶然見つけたからと言って彼女と行動を共にしようだなんて都合のいい話のように思えたのだ。

 ゆりこはもうなんとも思っていないかもしれないが、優一は少し彼女に対する罪悪感がある。

 あの日以降それはずっと胸の奥底でうっすらと沈殿して今も残っていた。

 なんだかんだと都合をつけたが自分は彼女から多分逃げたいのだと思う。

 「帰るぞ」

 だから今日春とホテルに帰るために駅へと向かった。

 「でも、優一……」

 少し名残惜しそうな今日春の拘束された腕を引いて、足早にその場を後にした。




 ヴィッフェタイプの夕食。

 優一は今日春の分もとると席へと着いた。

 相変わらず雛のように口を開けて待つ今日春に食事を運んでやりながら、ふとゆりこの姿を探してみる。

 やはりいない。

 (何かあったのだろうか)

 少し心配になったが、

 「――痛っ!」

 早く寄こせばかりに今日春が優一の右手の人差し指を思い切り噛んできたので今は食事をすることに専念することにした。




 「どうしよう」

 「先生、連絡がとれないよ」

 「大丈夫、先生が探してくるからみんなは部屋に戻って寝なさい」

 入浴のために大浴場に向かう廊下で京子先生と女子達のそんなやりとりを耳にする。

 話しの内容からするとゆりこがどうやらまだ帰ってないらしい。

 どきりとした。

 罪悪感を覚える。

 あの時自分が声を掛けていれば、一緒に帰っていればこんなことにはならなかったのかもしれない。

 子供の頃にガラスを割ってしまって中々言い出せない時と同じ居心地の悪さと同じものを感じだ。

 (でも、もしかしたらもうすぐ帰ってくるかもしれない)

 そう自分に言い訳して、結局その会話の中に優一は入っていけなかった。

 聞こえなかったフリをして足早に大浴場へと向かったのだ。


 「すごいね。なんかエッチな本にありそう」

 今日春の姿を見て、そう言った一人の言葉に優一はふと我に返る。今日春はタオルで目隠しをして後ろ手にその腕を拘束されていた。

 「ああ、こうしないと危ないんだよ」

 別に性的な意味などまるでなく、そうしないと本当に危ないのだ。

 動いているもの全て、彼の殺しの標的になりうる。

 凶器がなくなくてもいざとなればなんでだって人は殺せてしまうのだ。

 そもそも同性だし、今日春のこの姿は優一には見慣れたものだったがどうやら他人から見たら扇情的なものに見えるらしい。

 「あっ、そっか」

 けれど優一の身体に残る数々の傷跡を見ると、彼は納得したようにそう相槌を打った。

 自分が被害に合わないからきっとみんな今日春が殺人鬼だと言うことを忘れているのだろう。

 首筋にくっきりと半円形に残る傷跡は小学校の時に目隠しを忘れて今日春と風呂に入った時のものだ。

 身体を洗ってやってたら思い切り噛みつかれた。

 「下、滑るから気を付けろ?」

 木でできたロッカーとそこに入っていた籠の中に脱いだ服を入れ風呂場へと向かう。

 ガラスの引き戸を引いた瞬間湯気がもわりと身体を包んだ。

 真っ白な湯気の中、水を流す音と人の話し声が響いて聞こえていた。

 黒と白のタイルが交互に敷き詰められた風呂場の床は少しぬるりとしていて気を抜いたら滑って転んでしまうだろう。

 軽く掛け湯をして優一の六畳の部屋と同じぐらいの広さがありそうな浴槽へと入る。

 少し熱めの湯で水深は少し深めだった。

 多分子供だったら立ってようやく顔が出るぐらいの深さだろう。

 「肩まで沈めよ」

 そう言うと今日春は大人しく肩までお湯につかった。

 靄のかかった風呂場の天井をなんとなく見つめながら、風呂から出たら彼女が帰ってきてればいいなぁとぼんやりと思う。

 「優一、あっつい」

 大人しく肩までつかっていた今日春がそう呻いた。

 見ればいつもは血色の悪い白い肌が今は真っ赤になっている。

 「よし、頭と体洗うか」

 少し長く沈ませすぎてしまったかもしれないと少し反省しながら優一は今日春を連れて洗い場へ向かった。

 椅子に座らせ、背後からまず頭を洗う。

 小さな頭だ。

 こうやって髪を洗う度に思う。

 猫っ気の細い髪、不揃いの前髪は今日春が自分で切っている。

 それはハサミだったりナイフだったり今日春のお気に入りの暗器の改造された猫手だったりするが、髪の傷みだとかそんなこと一切気にしてない割には彼の髪の手触りは悪くない。

 シャンプーに一応トリーメントをして、身体もきちんと洗ってやる。

 最後に、

 「目瞑って」

 そう言ってから目隠しのタオルを外し、顔を拭いておしまいだ。

 再びタオルで目隠しして浴槽の方へ再び連れていく。

 「俺が洗うまで沈んでて」

 「肩まで?」

 「肩まで、五十」

 それがいつも今日春と風呂に入る時にやりとりだった。

 背後で「いーち、にーい」と響く声。いつもより若干早いように感じる。

 きっと風呂が熱いから早く出たいのだと思う。

 優一は大急ぎで自分の頭と体を洗い、今日春が四十を数え終わる頃、自分も浴槽へと入った。

 「ごーじゅう」

 数え終わった途端に今日春は立ち上がる。

 余程熱いんだな――と思いつつ優一も一緒に立ち、滑る床に注意しながら風呂場を後にした。

 優一は脱衣所で先に自分が服を着ると

 「あっついよ」

 そう愚痴る今日春をなだめながら新しい下着と寝間着、そして拘束衣を着せてやる。

 部屋に戻る途中の廊下、流石に先生もあの女子たちももう居なかった。

 先生はゆりこを探しに行ったのだろうか。

 それとも彼女は帰ってきたのだろうか。

 「ゆりちゃんいないの?」

 廊下の途中、今日春がそう優一に聞いてきた。

 「さぁ、どうだろな」

 優一は自分が苛立ってる事に気が付く。

 普段、めったに怒ったりなんてしないのに、なんだか今はどうしても気分が落ち着かなくてイライラする。

 「ゆりちゃんさぁ」

 「黙れ!」

 声を荒げてそう言って、自分で言った癖に酷く驚いた。

 今迄何があっても今日春に怒鳴ったりお凍ったりしたことなんて無かったのだ。

 「……ごめん」

 謝罪する優一に今日春は良いとも悪いとも言わず、ただじぃっと何もかも見透かしたように優一の顔を真っ直ぐ見ていた。

 見透かされてると思うのはきっと自分の気持ちにやましいものがあるからだろう。

 「石井さんのこと先生達に言いにいこうか」

 優一の言葉に今日春は何も言わない。

 ただ口元が少しだけ笑みを描いたような気がした。

 それだけで、なんだか少し許されたような気がするのだから自分の心の作りはすごく単純に出来ていると思う。

 職員が泊まる部屋まで行き原宿でゆりこを見たと伝える。やはりまだ彼女はまだ帰ってきてないようだ。

 優一の情報を教師たちはすぐさま探しに出た者たちに携帯で伝えた。

 それから優一には他の生徒の不安を煽るからと口外しないようにと言い部屋へと戻るようにと言う。

 本音を言えば、自分も捜索しに行きたいぐらいなのだが地元ならまだしも、知らない土地ではなにもできそうもない。

 彼女を探しに出たところで自分が迷子になる可能性が高い。ミイラ取りがミイラになる可能性が高くてそう名乗り出ることだできなかった。

 仕方ないので今日春と共に部屋に戻り六人部屋の座敷に敷かれた布団の中に入り込む。

 修学旅行にありがちの誰が好きかなんて言う話も上の空だった。

 ぼんやりと返事をしながら、誰かが居なくなった彼女の名前を照れくさそうに出したところで優一は意識を手放した。




 「ゆーいち、ゆーいち」

 今日春の声が聞こえてその直ぐ後に頭に重みを感じた。

 瞼を開けば今日春が立っていて優一の頭を右足で踏んでいる。

 他に起こし方はないのか?

 「おさんぽする」

 ――抗議する間もなくそう言われる。

 「さんぽは駄目だ。ここは町じゃない」

 足をどけて上半身を起こしてからそう言うが、

 「する」

 今日春は優一の言葉なんて聞いていないようだった。

 「はらじゅくいこ?」

 小首を傾げてそう言う彼の中で散歩はもう決定事項らしい。

 今日春がすると決めたことはもう覆すことができない。そう思い込んでしまったなら他に気を反らすことも、忘れることもないのだ。

 仕方なく服を着替え部屋を出る。

 廊下は電気は点いているが人の気配は一切ない。

 ロビーに出ると受付の電気が点いているもののそこに人はいなかった。

 受付の奥、カーテンを引かれたそこからテレビの声のようなものが聞こえるからきっと人はいるのだろうけど見つかると言い訳するのが面倒になる。

 幸いこのホテルから今日春が行きたがっている原宿はそう離れていないからみんなが起きる前に帰ってこれるだろう。

 (さっさと行ってさっさと帰ってこよう)

 そう思って二人でホテルから出た。

 早朝の山手線はあの人混みが一体どこに行ってしまったのだろうと思うぐらい人が居なかった。

 (なんだか現実じゃないみたいだ)

 ガラガラの電車内、電車の走行する規則正しい音だけが聞こえる。

 そして原宿駅に電車は滑り込み昼間は地獄の蓋を開けたように人が犇めき合っていた竹下通も今は歩いている人の方が少なかった。

 まだ太陽が昇らない空の色は深い青色で、白い街頭が街を照らしている。

 夜の色とは違うその青の中を今日春とゆっくりと歩く。

 今日春はこの街が気に入ったのだろうか、昼間はそんな感じがしなかったけれど。

 原宿竹下通り口から竹下通りを真っ直ぐに歩き、表参道まで出る。

 「さぁ、帰るぞ」

 そう言って踵を返すけれど今日春は、横断歩道を渡り始めてしまっていた。

 それは昼間最後にあの彼女を見た場所の方だった。

 「おいっ」

 声をかけてみるが今日春は何かに吸い寄せられるように歩いていってしまう。

 今日春を一人で歩かせるわけにはいかない。

 あの治外法権のような町の中でなら、誰かが彼を見つけ家まで送り届けてくれるだろうけど、ここは町じゃないのだ。

 見失ってしまったら恐ろしいことになる。 

 優一は駆け足で今日春の後を追った。

 まるで迷路のような建物と建物の間の細い道を今日春は元から知っているかのように躊躇うことなくするすると歩いていく。

 階段を下がり、上がり、下り坂、上がり坂、空はだんだん明るくなりこうして歩いて一体どれぐらいの時が立ったのかいい加減帰らないと怒られてしまうと思った時。

 「ゆりちゃん。いたよ」

 裏路地、油の匂のする薄暗い場所で今日春の足は止まる。

 今日春の顔は怖いぐらいに無表情でその視線の先に肌の黒い逞しい男が三人とゆりこがそこにいた。

 「―――!」

 優一はその光景を見て思わず言葉を失う。

 彼女は下半身を裸にされて四つん這いにされ彼女の前に一人、後ろに二人。

 一人が小さく細い身体にのしかかりぴったり身体を合わせて腰だけがしきりに動いていた。

 誰がどう見てもゆりこはレイプされている。

 くぐもった声は恐怖に引き攣っていて、髪の毛はぐしゃぐしゃになっていた。

 白い肌には男達の手形と白濁とした液体が散っていて、その光景は目を瞑りたくなるぐらい残酷なものだった。

 「優一、これ外して」

 そう言った今日春の声は氷のように冷たい。

 怒っているみたいだった。

 今、この時まで今日春は怒るとかそういう感情はないと思っていたけれど、彼は確かに怒りそして殺意をあの男達に向けている。

 拘束衣を解いたら彼は間違いなくあの三人を殺すだろう。

 それはしてはいけないことだ。

 ここは町ではない。

 今日春の殺しをただの悪戯のように許し笑うことのできるあの優しい町ではない。

 (でも、)

 優一は今日春の拘束衣を解いた。

 途端に猫のように今日春は身を翻して男達の所へ向かう。

 音も無く体制を低く屈めてそろりそろりと近づく、その動きは獲物を狩る肉食獣のソレだった。

 そしてタンッと地面を蹴り今日春は飛び上がると一番後ろにいた男の頭を思い切り蹴とばした。

 ボーリングの球ぐらいあるその頭は真横にある壁に激突する。

 壁にはべったりと血がついてずるりとその身体が地面に落ちていく。

 頭の形が少し変形してるように見えた。口からは泡を吹いているし多分もうあの男は今日春の蹴り一発で絶命してしまったのだと思う。

 仲間の姿に絶叫し、パニック状態の中、ようやく今日春の存在に気が付いた男達はナイフを取り出しその切っ先を今日春に向けた。

 (ああ、駄目だ)

 妖しくぎらつくナイフの刃を見た瞬間、優一は本能でそう感じた。

 多分、今日春はここであの男達を本当に殺してしまう。

 一人殺した次点で手遅れなのは分かっていたけれど、あんなものを見たらきっと彼の闘争心は火が点いてしまうだろう。

 鴉と同じで彼はキラキラと光るものが好きなのだ。

 ビー玉、鏡の破片、そして、凶器。

 向けられたナイフ、その手首めがけて今度は思い切り蹴りを入れる。

 痛みと衝撃で一人がナイフを落とし、凶器は今日春の手に渡った。

 手に入れたナイフで彼は男の腹を一突きする。

 手首を捻り、最後にはちゃんと空気を入れるようにその刃を少し上に上げる。

 引き抜けはおびただしい血液と腸が傷口から漏れていく。

 腹を刺された男は茫然としながら、必死にはみ出す腸を押し込もうとする。今日春に喉を切られてパタリと糸の切れた人形のように倒れた。

 「ひぃっ!」

 その様子を怯えて見ていた残り一人は耐え切れずその場を駆け出した。

 止まったものより動くものに反応する今日春は相手が駆け出した瞬間、楽しそうにその身体に飛びかかる。

 逃げ出した男に馬乗りになった今日春はその喉笛を右手で思い切り潰し左手で目玉を抉りだしていた。

 両目を抉り出し、しばらく空洞になった眼孔をぐちゃぐちゃと弄っていたが、相手が動かくなるとつまらなくなったのか首の動脈を切り付けた。

 それから今日春は死体を一通り刺したり切ったりしていたがしばらくして飽きたらしく優一のところにくると優一の手に持たれたままの拘束衣を引っ張った。

 どうやら着せろと言うことらしい。

 今日春に拘束衣を着せてから優一は携帯を取り出して、緊急連絡用に教えられていた京子先生の携帯へとコールした。

 「先生、今日春が――」

 そう京子先生の携帯に電話をした自分の声は壮絶な現場を見たにしては酷く冷静だったと思う。

 十七年間生きてきて、今日春と共に育って、彼が人殺しをする現場は初めて見た。

 けれどそれは、想像通りの悲惨さでそれ以上でもそれ以下でも無かった。

 今日春は自分の予想の範囲内にいる。想像内の生き物なのだと分かってどこかホッとしている自分がいた。

 優一の情報からか丁度原宿にいた京子先生は血にまみれた今日春と、今日春の作った死体と、血だけではない汚れのついたゆりこを見て「あとは先生がやるから大丈夫」と優しく笑った。

 警察がもし来たとして、今日春のアレは正当防衛になるのだろうかとかそんな心配を余所に三泊二日の修学旅行はそれ以降なんの事件もなく過ぎてみな無事に町へと帰ってきた。




 振替休日の休み。

 いつものように早朝の散歩で小鳥坂に訪れると林のおばあさんがせっせと木の手入れをしていた。

 「ああ、きょうちゃん。また肥料をたくさんありがとね」

 そうニコニコ笑う林のおばあさんの足元には黒い肉厚で大きな男の手が生えている。

 それはあの日、今日春が殺した男達の肌の色によく似ているように感じた。

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